YOSHIKIの母の死因は病気?2人のエピソード4選もご紹介!

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日本を代表するロックバンド「X JAPAN」のリーダーであるYOSHIKIさんは、日本のみならず世界で活躍しており、知らない人はいないのではないでしょうか。

YOSHIKIさんの母親は、2022年5月13日に亡くなっています

母親の死因は何だったのか、何歳で亡くなったのか、そしてYOSHIKIさんと母親2人のエピソードなど、ご紹介していきたいと思います。

YOSHIKIの母(林千恵子)の死因は病気?

2022年5月13日、YOSHIKIさんの母親「林千恵子」さんはお亡くなりになられています。

その死因は病気だったのでしょうか?

SNSで死去を公表したYOSHIKIさんでしたが、「もう一日だけ、涙が枯れるまで泣かせてほしい」と母の死去を受け止めることが出来ず、悲痛な叫びを露わにしていました。

母親の死の真相について解説していきたいと思います。

YOSHIKIが母の死去を公表!

「Instagram」で母親の死去を公表してたYOSHIKIさんですが、母親の死で憔悴しきっている姿をさらけ出していました

SNSでは次のように語っています。

「お母さんが永眠し、昨日火葬されました。まだ心の整理ができず、涙が止まらない。」
「親不孝な息子だったけど、お母さんは、ずっとかけがえのない存在だった。」
「涙が枯れるまで泣かせて欲しい。」

母の死去から5日後には、テレビ番組の審査員として出演していましたが、出演者のパフォーマンスで、涙を流しコメントもできない場面があったそうです。

母の死から完全に立ち直っていない状態での出演だったのだと推測できます。

YOSHIKIの母は病気で他界?何歳だった?

母「林千恵子」さんは何歳で亡くなったのか、年齢は公表されておりません。

何歳だったのか推測になりますが、YOSHIKIさんが現在「57歳」ですので、20歳歳が上と考えると「80歳代」だったと推測できます。

さらに亡くなった死因についても、公表はされていないのです。

しかし亡くなる前からずっと介護されていたそうなので、何らかの病気によって亡くなった可能性が高いと思われます。

YOSHIKIの母を看取ったのは弟!

「林光樹」さんは元俳優で、YOSHIKIさんより5歳年下の「52歳」とのことです。

林光樹さんツイートによると母の千恵子さんは、亡くなる前から倒れてしまい「看護と介護」を弟さんから受けていたそうです。

そして母が亡くなった時も、すぐそばで看取ったことをツイートしています。

YOSHIKIさんにとっても弟の光樹さんにとっても、母親は「かけがえのない」偉大な存在だったということが2人の言葉からも伝わってきます。

YOSHIKIは母の死で引退を考えていた!

母の死去後YOSHIKIさんは「一瞬、引退、考えたよ」とツイートしており、母の死が大きかったことを綴っていました

しかしネガティブツイートばかりではなく、これからの自分に対しての生き方についても、次のように明かしています。

でも、芸術家って、息を引き取るその瞬間まで、芸術家として生きるのが宿命なのかもしれない

強い決意を語っており、今後もさらなる活躍が期待されています

YOSHIKIが母を慕うエピソード4選!

母・千恵子さんの死はYOSHIKIさんが引退を考えるほどの非常に大きな出来事だったと言えます。

YOSHIKIさんが生きていく中で千恵子さんは、大きな「支え」となっていたということが分かります。

大きく太い「絆」で結ばれていた、YOSHIKIさんと千恵子さんですが、YOSHIKIさんがどれほど千恵子さんを慕っていたのか分かるエピソード4選について解説していきます。

エピソード①女手一つでYOSHIKIと弟を育ててくれた!

YOSHIKIさんは1965年11月20日、千葉県館山市にある呉服屋の長男として生を受けました。

5歳はなれた弟「光樹」さんと共に、ご両親の愛情をたくさん受け育っていきました。

ですがYOSHIKIさんが10歳の頃、父親は34歳という若さで亡くなってしまいます

死因は明らかにされていませんが、父親は「自殺」を図り亡くなっています。

父が亡くなってからも千恵子さんは気丈に振舞い、2人の我が子には苦労をかけまいと、女手一つしっかりと育て上げたのでした。

呉服店は父が亡くなった数年後には閉め、株や不動産投資という所謂「投資家」として生計を立てていたそうです。

商才があったようで、YOSHIKIさんと光樹さんが「お金で困る」ことはなかったそうです。

YOSHIKIが父親に向けて「tears」を作詞作曲!

1993年に発売された「Tears」はXJAPANのヒット曲として、とても有名な楽曲です。

この楽曲は、亡き父に想いを込めて作られたものでした。

収録アルバム「DAHLIA」では、曲の最後に幼少の頃自殺した、亡き父への想いを綴った朗読が追加されるなど、消えることのない悲しみや怒り、葛藤が表現されています。

エピソード②YOSIKIをKISSのコンサートに連れて行ってくれた!

YOSHIKIさんが小学6年生の頃、千恵子さんはYOSHIKIさんと弟を、武道館に連れていってくれたそうです。

YOSHIKIさんが、KISSのレコードを買ったことがきっかけで、KISSの大ファンになってしまったからだそうです。

「KISSのコンサートに行きたい」というYOSHIKIさんのおねだりに、千恵子さんは断りきることが出来なかったのでしょう。

このコンサートに感銘を受けたYOSHIKIさんは「僕は決めた、絶対ロックスターになる」と強く決意したそうです。

今のXJAPANやYOSHIKIさんは、このコンサートがなければ存在していなかったのかもしれません。

エピソード③デビューアルバムをリリースするために1000万円貸してくれた!

YOSHIKIさんはなんと20歳の頃、レコード会社を設立しており代表取締役に就任しています。

理由としては、レコードのリリースをしたかったのですが、レコード会社からオファーがなかったためとのことです。

しかしそのような大金が、当時高校を卒業したばかりのYOSHIKIさんには、あるはずがありませんでした。

様々な業務上の手続きなどは、千恵子さんが済ませてくれたそうです。

そして会社設立から2年後の1988年、デビューアルバム「VANISHING VISION」をリリースするのですがこの時、母・千恵子さんから1000万を借りています

最初は「そんなお金はない」と断っていましたが、翌日には口座に1000万が振り込まれていたそうで、女性でありながら男気がある一面もあったそうです。

エピソード④YOSIKIの音楽活動を応援してくれた!天皇に演奏を披露!

1998年5月、XJAPANの元ギタリスト・HIDEさんが急逝しました。

失意のどん底に落とされたYOSHIKIさんに、「天皇陛下御即位10周年」で演奏する曲の作曲と、演奏のオファーが舞い込んできました

千恵子さんに「天皇陛下御即位10周年」の依頼ことを相談すると「素晴らしいご依頼をいただいたことに感謝して、やってみたらどう?」と、YOSHIKIさんの背中を押してくれたと言います。

天皇と皇后が起立した状態で聴くため、曲の長さなどにも気を付けながら、試行錯誤したと言います。

そして当日の祝典では、天皇陛下を目の前に、オーケストラと共にピアノを演奏披露し、表舞台へ復帰することになりました。

YOSIKIは母のために「レクイエム」を作曲!

「レクイエム」を作曲した当時は「どん底にいた」と、YOSHIKIさんは語っています。

母・千恵子さんが亡くなり、どん底の真っ暗闇から「光に向かっていく」イメージで、作曲と共に「自分自身も前に進めた」のだと言います。

亡き母を想い作曲されたこの「レクイエム」は、きっと千恵子さんへ届いていることでしょう。

「YOSHIKI」と母は、深い絆で今も結ばれている!

幼少期に父親が亡くなり、女手一つで育て上げた母・千恵子さんは、YOSHIKIさんにとって心の支えであり、とても「偉大な存在」なのだと気づかされました。

この母親でなければ、今のYOSHIKIさんは存在していなかった、と言っても良いのではないでしょうか。

今も母・千恵子さんはYOSHIKIさんの中で大きな支えとなり、活躍を見守ってくれていることと思います。