パブロ・エスコバルは巨大な麻薬密売組織のトップで、世界中に薬物を密売していた人物です。
あまりにも大きな権力とお金を手にしたことから、「麻薬王」や「史上最も裕福な犯罪者」などと言われています。
しかし、薬物を密売していたにもかかわらず、一部からは英雄視もされています。
では、麻薬王と呼ばれながら英雄とも言われるパブロ・エスコバルとは、一体どのような人物だったのでしょうか?
目次
パブロ・エスコバルって誰?

パブロ・エスコバルは麻薬王と呼ばれた人物ですが、一部からは英雄視されることもあります。
なぜ、麻薬王が英雄視されているのでしょうか?
また、パブロ・エスコバルとはどのような人物なのでしょうか?
麻薬密売組織のトップ

パブロ・エスコバルはコロンビアでメデジン・カルテルという犯罪組織集団を設立したトップです。
1970年代~1980年代が活発な活動きであり、麻薬の生産・加工・販売を主体にして、あらゆる犯罪行為を行っていました。
最盛期には大きな権力を得て、世界の殺人や薬物をコントロールしていたとまで言われています。
英雄視されることもある?

世界の犯罪をコントロールするほど恐ろしいパブロでしたが、貧困層からは英雄視されることもあります。
パブロは手にした莫大なお金を使って、貧困地域に住宅・公園・学校・競技場・教会などを建てました。
また、お金を配ることもあったそうです。
そのため、社会から見放された貧困層の人たちにとっては英雄でした。
認知度が高まった理由

パブロ・エスコバルは世界の犯罪に影響を与える存在でしたが、あくまでもそれは闇社会のことです。
そのため、遠く離れた日本の表社会で真っ当な生活を送る人たちにとっては、あまり耳に入る名前ではありませんでした。
しかし、パブロの生涯を描いたドラマや映画はいろいろとあります。
また、ネットやサブスクなどの普及によって、海外のドラマや映画などの映像作品も手軽に観られるようになりました。
これらの作品が人気となったことで、日本でもパブロ・エスコバルの認知度は高まりました。
パブロ・エスコバルの生涯とは?

パブロ・エスコバルは世界の犯罪に影響を与えているとまで言われた人物です。
では、どのようにして、それだけ大きな力を得ることができたのでしょうか?
また、大きな力を得たパブロ・エスコバルは最終的にどうなったのでしょうか?
10代から犯罪に手を染める

パブロは10代の頃から墓石を盗んで密輸業者に転売する犯罪ビジネスを始めていました。
その後も詐欺・窃盗・強盗などのいろいろな犯罪行為に手を染めていきます。
1970年初頭にはコロンビア北西部にある都市メデジンで政府高官の誘拐と身代金の要求まで行うようになりました。
コカイン家業の開始

パブロが薬物に関わり始めたのは1975年頃からです。
密輸経路を使ってアメリカでコカインを密売する家業を始めます。
このコカイン家業がヒットすると、航空機やヘリを何台も購入して、さらに規模を拡大していきました。
しかし、1976年に部下と共にパブロは逮捕されてしました。
このとき、パブロは裁判官に賄賂で買収しようとしますが失敗します。
また、自分を逮捕した警官を殺す依頼を出したとも言われています。
結局、事件は不起訴となりましたが、この出来事が賄賂と殺人での対処というパブロ・エスコバルとしての有名な仕事のやり方を生むきっかけとなりました。
全盛期の1980年代

1980年代になるとコカイン家業は全盛期に入り、アメリカには1日に15トンものコカインが密輸されていたと言われています。
その規模は全世界で流通しているコカインの80%を管理するものと言われました。
また、犯罪組織として大きくなったメデジン・カルテルは権力を維持するために、闘争が繰り返され、コロンビアでは殺人率が大きく上昇することになりました。
コロンビア政府への投降

コロンビアから大量の薬物が密輸されていることから、コロンビアとアメリカとの間で犯罪者の身柄を引き渡すための条約が検討されていました。
そして、1990年にパブロを捕まえてアメリカに引き渡せる法案がコロンビアで成立します。
1991年にはコロンビア政府が刑期の短縮や収監中の優遇措置などを交渉材料にパブロに対して犯罪行為のすべてをやめるように求めました。
敵対組織であるカリ・カルテルとの抗争が激化していたこともあり、パブロはこの交渉を受けて、コロンビア政府に投降しました。
豪華な私設刑務所に収容

コロンビア政府に投降したパブロは収監されることになりましたが、その刑期は5年であり、アメリカへの引き渡しもしないという条件が付きでした。
また、収監されたのはラ・カテドラルというパブロが建設した施設で、サッカー場や酒場などの豪華な私設刑務所でした。
さらに、パブロは刑務所を自由に出入りして、市内に出かけてサッカー観戦をしたり、パーティーを開いたりなど自由に過ごしていたそうです。
刑務所からの脱走と追跡

政府に投降して収監されたパブロでしたが、行動はほぼ制限されずに自由に過ごしていました。
1992年には刑務所内で2件の殺人事件を起こし、コカイン密輸の指示もこれまで通りに行っていたことなどが発覚します。
世間にもこれらの情報が出回ったことで、パブロは私設刑務所から一般的な刑務所に移されることになりました。
しかし、その計画を知ったパブロは刑務所を移される前に脱走をして、メデシン市内に潜伏してしまいました。
脱走に成功したパブロでしたが、追うのはコロンビア政府だけでなく、刑務所の外は敵だらけとなっていました。
敵対組織のカリ・カルテルやパブロに恨みを持つ人で組織された自警団、コロンビア警察の特殊部隊にも追われることになります。
さらには、アメリカの特殊作戦部隊までパブロの捜索に加わることになりました。
パブロ・エスコバルの最期

多くの追っ手から逃げていたパブロでしたが、1993年に通話の傍受によって居場所を特定されます。
部隊に囲まれたパブロは逃走しようとしましたが、数発の銃弾を受けて亡くなりました。
トップを失ったメデシン・カルテルは壊滅し、その後は敵対組織のカリ・カルテルがコカイン市場を得ることになりました。
パブロ・エスコバルが与えた影響

パブロ・エスコバルは非常に強い影響力を持っていました。
では、パブロは世間にどのような影響を与え、残したのでしょうか?
コロンビアの殺人発生率を高める

メデシン・カルテルがコロンビア政府や敵対組織などと戦ったことで、コロンビアでの殺人発生率は非常に高いものとなりました。
その後は少しずつ殺人発生率は下がり、2018年12月に日本の外務省はコロンビアの一部の地域で危険レベルを引き下げました。
ただし、殺人発生率が下がっていると言っても、完全に治安が良くなって安全になったというわけではありません。
残された家族は?

パブロ・エスコバルには妻のマリアと息子のホワンがいました。
パブロが亡くなったことで、その家族が敵対組織であるカリ・カルテルから報復に遭う危険性は高いです。
しかし、パブロとの抗争による賠償金を要求されたものの、今後は麻薬の取引に関わらないことやカリ・カルテルに対して報復しないことなどを条件に妻と息子の命は保証されました。
その後、妻のマリアと息子のホワンは亡命する国を探しましたが、認めてくれる国は見つからず、アルゼンチンへ移住することになります。
聖人とみなされる

世界の犯罪に影響を与えていたパブロ・エスコバルですが、お金を配ったり、住宅や学校を建てたりなどしてもらった貧困層の人たちからは英雄視されていました。
そのため、葬儀にはパブロを支持する人達が2万5000人も集まりました。
また、支持者の中にはパブロ・エスコバルを聖人とみなして祈りを捧げる人もいるそうです。
パブロ・エスコバルの作品を観てみよう

パブロ・エスコバルは麻薬王と呼ばれた麻薬密売組織のトップだった人物です。
しかし、貧困層の人達からは英雄視もされています。
また、政界への進出や最高裁判所の襲撃事件など、ここでは書ききれなかったことも多くあります。
もし、パブロ・エスコバルに興味があれば、その生涯を描いた映画やドラマを観てみると良いでしょう。