【真相】ドリフいかりや長介の死因は?志村けんとの関係性や葬儀・遺産を調査!

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ザドリフターズのリーダーとして、バラエティ番組「8時だョ!全員集合」や「ドリフ大爆笑」で一世を風靡した、いかりや長介さん。

ご存じの通り、彼が才能を示したのはコメディアンだけではありませんでした。

歌手、声優、俳優とさまざまな方面で活躍し、長きに渡り芸能界の第一線を引っ張ってきました。

今回は、そんな彼の死因や志村けんさんとの確執について。

そしていかりや長介の死後、遺産で揉めた理由など、知られざる真実を探っていきましょう。

いかりや長介は2004年に72歳で死亡

いかりや長介さんは2004年3月20日午後3時半に72歳(享年73歳)で他界しました。

亡くなったのは、癌の再発からわずか10か月後のことでした。

そして奇しくもこの年は、ドリフの結成40周年という節目の年でした。

死因は、原発不明頚部リンパ節がんと公表されています。

死因は原発不明頚部リンパ節がん

原発不明がんは、 頸部リンパ節(首のリンパ腺)の癌のことです。

ただ頸部リンパ節にがんが発生することはありません。

頸部リンパ節に癌が認められた場合には体のどこかに癌があり、それがリンパの流れにのって転移した状態とされています。

このがんは、現在においても治療法がしっかり確立されていない難病です。

がんの転移元が判明していない場合は、がんの種類に合わせた治療を選択することもできず、抗がん剤を中心とした対処療法しかないようです。

生存率も低く、1年生存率は25%未満、5年生存率は10%未満と言われています。

いかりや長介さんは原発不明頚部リンパ節がんが発見された際、ステージⅣの末期の段階でした。

頸動脈に癌があったため、手術は行えず放射線治療、抗がん剤治療を行っていました。

後に転移した、顎の癌は2回の手術で摘出されましたが、術後は食事をとることが困難になり、胃ろうになってしまったそうです。

2000年7月食道がんに

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マスコミや世間には一切公表されませんでしたが、いかりや長介さんは2000年7月に食道がんを患っていました。

幸い早期発見だったため、極秘でスケジュール調整を行い内視鏡による手術を受け、癌は摘出されました。

この時の食道がんの手術経過は良好で、定期的な検査をし、転移が発見されたとしても摘み取っていけば大丈夫だと医師から告げられていたそうです。

癌再発!2003年5月にドラマを降板

残念ながら癌は再発し、気づいた時には手遅れの状態でした。

いかりや長介さんの異変に気づいたのは息子さんで、首の右側が腫れていることを不審に思い、検査したところ癌が発覚したそうです

いかりや長介さん自身は特に自覚症状がなかった為、癌の発見が遅れてしまいました。

詳しい検査の結果、「原発不明頚部リンパ節がん」ステージⅣと診断されました。

治療に専念する為、出演予定だったドラマ「高原へいらっしゃい」は降板することになりました。

余命8ヶ月で仕事復帰

闘病の末に2003年7月に退院し、映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の舞台挨拶で仕事復帰を果たしました。

同年8月6日には『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ系)のゲスト出演しました。

しかし、後のインタビューで息子さんは、この時すでに病が進行しており「余命3ヶ月〜半年」と医師から告げられていたと語っています。

いかりや長介さんは体力が限界の中、現場復帰を目指し懸命に治療をつづけていました。

息子さんによると、そんな父に余命宣告はあまりに酷だと本人に余命宣告は行われませんでした。

最後の仕事はドリフだった!

いかりや長介さんの生涯最後のテレビ出演はドリフの番組である「40年だよ!ドリフ大爆笑」でした。

2003年の12月8日に収録され、同年12月23日に放送されました。

またドリフ5人全員が揃って収録したのは、2001年の「第52回NHK紅白歌合戦」以来、約2年ぶりだったそうで、全員集合したテレビ番組はこれが最後となりました。

そして偶然にもいかりや長介さんの最後の仕事に出くわしたのがダウンタウンの浜田雅功さんでした。

浜田雅功さんとってもザ・ドリフターズは憧れの存在で、5人を目の前にして緊張している浜田さんに話しかけられても微笑むだけでいかりや長介さんが言葉を発することはなかったそうです。

志村さんによると、いかりや長介さんは声もほとんど出ない状況だったようです。

それでも番組収録に参加したのは、ドリフの40周年に向けての思いが強かったからでしょう。

ザ・ドリフターズは全員でお笑いを突き詰め、不仲など紆余曲折しながらも、解散はせずお笑いを続けてきました。

そしてリーダーであるいかりや長介さんが、メンバーのキャラクターや性格を理解して、活かしていたからこそ「8時だョ!全員集合」は16年も番組が続いたのでしょう。

追悼番組が放送された

2004年3月27日には追悼番組として「長さんだョ!全員集合」(TBSテレビ)が放送されました。

20時をまたぐ番組だった為、20時を刻むのと同時に当時のドリフ全員集合のオープニング映像も流しました。

「8時だョ!全員集合!!」という掛け声とともに出演者だけでなく、いかりや長介さんを偲ぶファンが追悼しました。

いかりや長介と志村けんの不仲説は本当!?

かりや長介さんと志村さんさんの不仲説は本当だったそうです。

2人が出演していた「8時だョ!全員集合」は、最高視聴率50.5%を記録した国民的番組でした。

人気に伴って、1回の収録で1500万円を稼いでいたドリフターズ。

しかし仕事が増えても、メンバーのギャラは大きく動きませんでした。

なんと以前は均等配分されていたギャラが、「ドリフターズ事務所」が設立された途端にいかりや長介が6割で、他のメンバーが1割ずつという配分に変わっていたのです。

志村けんさんはその事から不満を持ち始めたと語っていました。

さらに構成案を決める過程でも、志村けんさんといかりや長介さんは意見が対立することが多くなり、徐々に2人は疎遠になっていったそうです。

一時期は共演NGをだしていたほど、仲が悪かったということです。

志村けんの舞台を見に行っていた!

いかりやさんは2003年7月に病院を退院して間も無く、体調も万全ではない中、志村けんさんの舞台をお忍びで見に行っていました

スタッフに声をかけられましたが、志村さんを気遣い楽屋挨拶はしなかったそうです。

息子さんが語った、いかりや長介さんのエピソードでは、師匠として志村さんが出演する番組を毎回録画してチェックしていたことや、舞台も鑑賞しに行っていたと明かされています

志村さんもこのエピソードは知らなかったそうで、話を聞きながら涙していました。

息子が語った亡くなる前のメモとは?

いかりや長介の息子がテレビ番組に出演し、晩年のいかりや長介さんについて語りました。

いかりや長介さんは病床で意識が朦朧とする中、震える手で「オッス」「八時だよ」「次行ってみよう」「だめだこりゃ」など、ドリフでの決め台詞を書き始めたそうです。

そしてその中には「加藤がえらい、志村がえらい」という言葉も書かれていたとのことでした。

そのエピソードを聞いた志村けんさんは、「今から見ると、笑いに一生懸命だったとわかる。その後を継いで良かった。僕の師匠としては間違いなかった」と師匠へ思いを馳せました。

いかりや長介の葬儀や遺産はどうなった?遺書も発見!?

いかりや長介さんは、2004年3月20日に息を引き取り、同年3月23日に通夜、24日に告別式が行われました。

盛大に行われた葬儀にはいかりや長介さんを偲ぶ沢山の人が訪れました。

そしてその後、世間で注目を浴びた遺産問題。

ドリフの時代から相当稼いでいると言われていた、いかりや長介さんですが、はたして遺産はどれほどだったのでしょうか。

さらには遺書が見つかったとの噂もあるようです。

葬儀には800人もの芸能関係者が参列

2004年3月24日に行われた葬儀では、ザ・ドリフターズのメンバー4人をはじめ、ドラマ「踊る大捜査線」で共演した織田裕二さんや深津絵里さん、柳葉敏郎さんが弔問に訪れました。

さらに「GOOD LUCK!!」で共演した木村拓哉らも弔問に駆けつけ、芸能関係者だけでも約800人が参列しました。

喪主は 長男が務め、弔辞は加藤茶さんが読みました。

仲が悪かったと言われる高木ブーさんも、「バカヤロー!」と叫びながら号泣していたそうです。

1万人のファンが記帳に訪れた

葬儀には、芸能関係者だけでなく、ドリフのいかりや長介さんを敬愛した1万人ものファンが記帳に訪れました。

葬儀場の前では、出棺の車を待つ人だかりで溢れ、霊柩車が出てくると外苑東通りは人で埋まって交通が寸断されてしまいました。

そして出棺の際には、「オイッス!」といかりや長介さんの持ちネタでファンから声がかけられたり、「和久さん、お疲れさま!」「和久さーーん」と「踊る大捜査線」で演じた和久平八郎の名前を呼びながら、直立し敬礼するファンもいました。

いかりや長介さんが、いかに多くのファンの心を掴んで離さなかったか分かる葬儀となりました。

弔辞を読んだのは加藤茶

最も付き合いの長い加藤茶さんが弔辞を読みました。

「最後の最後に嘘ついたよなぁ。去年の12月に久しぶりに会って、40周年の記念で「全員集合」と「大爆笑」、この2本撮りたいねって。長さん「いいね」「やろうよ」そう言ったよね。」と、いかりや長介さんを惜しみつつ「そのうち本当に全員集合になるかもしれないけど、その時はやっぱりまた向こうでコントをやろうよ。」と再会を誓いました。

最後まで気丈に振る舞っていた加藤茶さんですが、出棺の際は耐え切れず、涙を拭うような仕草がみられました。

不仲説が飛び交ったドリフのメンバーですが、一緒に過ごしてきた時間はかけがえの無いものだったのでしょう。

遺産は4億円!?奥さん3人で相続は難航

いかりや長介さんには6億円もの豪邸と、他に別荘やマンションも所有していました。

そして遺産は推定4億円とも言われています。

遺産を相続できるのは妻と子供ですが、最初の妻とは二人の子供をもうけるも離婚。

2番目の妻は死別で、3番目の妻である義子さんとは籍を入れない事実婚状態でした。

そのため義子さんは法定相続人に値せず、権利があるのは前妻との2人の子供のみでした。

しかし、子供達は父親の病気療養を献身的に支えてくれた義子さんに感謝を示し遺産相続に賛成したそうです。

遺産の中には、著作権や印税など分けるのが難しいものが多数あり、調整は難航したそうですが、全員が望む形で無事に解決したと言われています。

志村けんに宛てた遺書があった!?

いかりや長介さんの弟子であり、ザ・ドリフターズの最年少のメンバーである志村けんさん。

お茶の間で愛された国民的なコメディアンですが、いかりや長介さんにとっては幾つになっても心配な愛弟子だったようで、舞台や番組をチェックするなどして気にかけていたそうです。

そんな志村さんに対し、いかりや長介さんが遺書を残していたとSNSで話題になりました。

感動を呼ぶ内容で遺書だと信じた人も多かったようですが、すぐに「白い巨塔」の主人公、財前五郎の遺書を改変して作られた偽物だと判明しました。

「いかりや長介さんの志村さんへ宛てた遺書というのが拡散されて、うっかりRTしてしまったが、すが、これは白い巨塔の財前が里見へ書いた遺書のパロディで完全にデマのようです。」というツイートが広まり、嘘だと発覚したようです。

いかりや長介という人生

いかりや長介さんは、死因は歌手活動からスタートし、コメディアン、役者、声優など様々な分野で活躍し、多くの人に尊敬され愛された人物でした。

晩年は原発不明頚部リンパ節がんに侵され、仕事もままならない状態でしたが、最後の最後まで気丈に振る舞い、収録に挑む姿は多くの人に影響を与えました。

そして志村けんさんなど、ザ・ドリフターズのメンバーとの確執が噂された時期もありましたが、仕事へ厳しさや意識の高さはメンバー全員から尊敬されており、ザ・ドリフターズを頂点へ押し上げたいかりや長介さんは間違いなく最強のリーダーだったといえます。

今では、天国で志村さんや仲本さんとお酒を嗜んで、ザ・ドリフターズのメンバーを見守っている事でしょう。