【不死身の男】船坂弘のエピソードがヤバい?戦争中に残した伝説と終戦後の暮らしとは?

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敵の集団や拠点に1人で突撃して戦果をあげる。

ゲームや漫画などではありがちな展開ですが、現実でそのような展開はなかなか起こらないでしょう。

しかし、日本兵であった船坂弘さんはそのゲームや漫画の展開を実現しています。

その凄まじい戦いぶりは味方だけでなく、敵にまで認められるものでした。

では、その船坂弘さんとはどのような戦いをしたのでしょうか?

船坂弘が残した伝説とは?

船坂弘さんが伝説を残した戦いは、第二次世界大戦のアンガウルの戦いです。

その活躍はアメリカ軍に名指しで恐れられるほどのものでした。

では、船坂弘さんは戦場でどのような戦いをしたのでしょうか?

1人で200人を倒す

アンガウルの戦いは第二次世界大戦の終盤に起こった戦いであり、すでに日本軍が敗戦に向かっている状態でした。

アンガウルの戦いが起こったアンガウル島でも、日本軍1200人に対してアメリカ軍は2万2000人という圧倒的に劣勢となっていました。

そんな不利な戦場で、船坂弘さんは手榴弾と擲弾筒を用いて、たった1人で200人ものアメリカ兵を倒したと言われています。

現実的に考えれば、1対200の戦いで勝てるのはゲームや漫画の世界です。

しかし、船坂弘さんはその戦いを実現してしまったのです。

足が爆破されても歩く

船坂弘さんは戦場でアメリカ軍の爆撃を受けて、足を負傷して倒れてしまいます。

軍医が駆けつけるも、すでに怪我を負って数時間が経過していました。

軍医は傷や出血の状態から「もう助からない」と判断して、自決用の手榴弾を渡してその場から去りました。

しかし、船坂弘さんは近くに落ちていた旗で足を縛って止血し、一晩かけて這いずりながら基地へと戻って生還をします。

これだけでも十分な奇跡なのですが、翌日には足を引きずりながらも歩けるまで回復したそうです。

さらに、その足で前線に向かったと言われています。

銃弾を腹に受けても死なない

船坂弘さんは腹に銃弾を受ける大怪我も負ったことがあるそうです。

体には銃弾が残っていたと言われています。

銃弾は体内に残っていると鉛が溶け出して鉛中毒になったり、鉛が接触している部分から肉が腐ったりなどします。

戦場では十分な治療ができないため、銃弾が体内に残れば死は避けられません。

しかし、船坂弘さんは傷口に火薬を塗り込んで翌日には動けるようになったそうです。

火薬は止血を目的に傷口に塗ることはありますが、傷そのものの治療や殺菌効果はありません。

また、衛生面や傷の悪化などの原因にもなるため、あくまでも戦場での応急手当です。

その治療とも呼べない対処で回復した船坂弘さんを、部下たちは「不死身の分隊長」と呼ぶようになりました。

首を打たれても死なない

鬼神のような戦闘力や回復力を持つ船坂弘さんでしたが、さすがに1人の力では日本軍の圧倒的に不利な状況は覆せません。

日本軍は追い詰められて敗北間近となったとき、船坂弘さんは一矢報いようと、体に手榴弾をくくりつけ、銃を持ってアメリカ軍の拠点に突撃します。

すでにこれまでの戦いで体は重症を負っていて、まともに食事もできず体力もない状態でした。

しかし、そのあまりの迫力にアメリカ兵士たちは恐怖を感じたと言われています。

アメリカ軍は突撃してきた船坂弘さんを攻撃し、銃弾は首を直撃しました。

船坂弘さんの遺体として野戦病院に運ばれましたが、ここでも船坂弘さんの脅威の回復力が発揮され、3日後には立ち上がったと言われています。

捕虜になっても戦い続ける

蘇生した船坂弘さんは捕虜収容所に収監されます。

これまでの伝説的な戦いで船坂弘さんのチート能力がアメリカ軍にも伝わっていたことから、収容所では「勇敢な兵士」「船坂弘には注意しろ」などと言われていたそうです。

しかし、船坂弘さんは首に銃弾を受けて瀕死となったことで、その警戒心は緩んでいました。

船坂弘さんは収容所から脱走すると、施設内にあった日本兵の遺体から弾丸を手に入れます。

その弾丸の火薬を使って、アメリカ軍の弾薬庫に火をつけて爆破に成功しました。

次は飛行場を爆破する計画をしていましたが、さすがに捕まって再び収容所に戻されます。

その後、いくつかの収容所を転々として、最終的に日本に戻ってくることができました。

船坂弘はあの有名漫画のキャラクターモデル?

船坂弘さんは戦場で伝説的な戦いをしました。

そのチート級とも思える不死身の能力は、漫画「ゴールデンカムイ」の主人公である杉本佐一のモデルと言われています。

そのため、船坂弘さんと杉本佐一にはいろいろと共通点があります。

では、その共通点にはどのようなものがあるのでしょうか?

あだ名が同じ

杉本佐一は日露戦争で鬼神のような戦いぶりから「不死身の杉本」と呼ばれています。

船坂弘さんは「不死身の分隊長」と呼ばれていました。

そのため、2人は共通して「不死身」のあだ名を持っています。

戦闘力が高い

杉本佐一は日露戦争での戦いで名が知れ渡るほどの戦果をあげています。

また、作中でも強敵や野生動物などを相手に引き下がることなく戦っています。

銃の扱いには自信がないようですが、近接戦闘における戦闘力はトップクラスです。

船坂弘さんもたった1人でアメリカ兵に恐怖を与えるほどの戦闘力を持っています。

そのため、高い戦闘力も2人の共通点になります。

異常な回復力

船坂弘さんは命を落としてもおかしくない状況からの復活をしています。

また、その回復力は高く、重症を負っても翌日には歩くことができたと言われるほどです。

杉本佐一も高い回復力を持っています。

杉本佐一が軍医が諦めるほどの怪我を負った際に、翌日には傷が治っていたというエピソードが漫画「ゴールデンカムイ」にも登場します。

これは船坂弘さんの伝説と同じ話です。

共通するエピソード

漫画「ゴールデンカムイ」では作品冒頭で杉本佐一が首を撃たれます。

しかし、それでも杉本佐一は怯みませんでした。

首を撃たれる話も船坂弘さんの伝説にあります。

さすがに、船坂弘さんが首を撃たれた際には瀕死になり、蘇生まで3日かかりました。

名前のモデルは違う

船坂弘さんと杉本佐一は共通点や共通するエピソードがいくつか見られます。

しかし、名前には共通点がまったく見られません。

これは杉本佐一という名前のモデルは、漫画「ゴールデンカムイ」の作者である野田サトルさんの曽祖父であると言われています。

作者の曽祖父の名前は杉本佐一さんとそのままで、日露戦争を経験した軍人だったそうです。

また、杉本佐一さんも戦いの中で伝説を残されています。

杉本佐一さんは戦場で2000人のロシア兵に囲まれてしまいます。

その際の日本軍は500人ほどしかおらず、圧倒的に不利でした。

そこで、杉本佐一さんはもう1人の隊員と2名で、包囲するロシア軍を突破して援軍を呼ぶ命令を受けます。

杉本佐一さんらはその命令を成功させ、無事に4000人の援軍を引き連れて戻ってきました。

援軍が来てロシア軍が撤退したことで、被害を出さずに済んだそうです。

終戦後の船坂弘は?

伝説的な戦いをした船坂弘さんは、無事に日本に戻ることができました。

では、終戦後はどのような暮らしをしたのでしょうか?

誤って戦死が伝えられる

アンガウルの戦いで現地の日本軍が敗れたことで、舩坂弘さんは戦死したと実家に伝えられます。

舩坂弘さんは亡くなっていませんでしたが、終戦後もしばらくは収容所を転々としていたので、日本にすぐ戻ることができませんでした。

そのため、舩坂弘さんが日本に戻るまでの1年3カ月は、家族を含む誰もが戦死の報告を信じたままとなっていました。

舩坂弘さんは「日本に戻って最初にしたことは自分の墓標を抜くことだった」と帰国後に語られたそうです。

一坪の本屋を開業

日本に戻った舩坂弘さんは、アメリカの先進性を学ぶことが今後の日本には必要と考えて、本屋を開業します。

その本屋とは、渋谷駅前の大盛堂書店です。

最初に開いた本屋はわずか一坪の小さな本屋だったそうです。

いくつもの慰霊碑を建立

戦後の舩坂弘さんは、アンガウル島に鎮魂の慰霊碑を建てることを生涯の使命としていたそうです。

そのことを著書に書いたところ、読者から義援金が寄せられ、その使命を果たすことができました。

その後も戦記で得た印税で、ペリリューやグアムなどのいろいろな場所に慰霊碑を建てられました。

また、慰霊碑の建設以外にも、国際赤十字社への寄付もされています。

船坂弘は戦時中も戦後も伝説的

船坂弘さんは高い戦闘力と回復力というチート能力で、アメリカ兵に恐怖を与えました。

その鬼神のような強さは漫画「ゴールデンカムイ」の杉本佐一のモデルになっていると言われています。

また、戦後は日本の将来のために本屋を開いたり鎮魂の慰霊碑の建設したりなどもされています。

そのため、船坂弘さんの功績は戦いによるものだけではなく、戦後にも大きな功績を残されています。

いつまでも人の心に残るこれらの功績も、船坂弘さんと同様に不死身と言えるでしょう。