【13年間監禁】ジーニーの悲劇の真相が衝撃すぎる!?救出後の隔離児としての影響は?

未分類

ジーニーは幼い頃から13年もの間、親からの虐待によって監禁されていました。

幼い子どもの成長では、生活の中でいろいろな人と話したり、物に触れたりなどすることが非常に重要です。

しかし、彼女はその成長の機会を奪われました。

では、どうしてジーニーは監禁されることになったのでしょうか?

また、どのような監禁生活を送り、救出後はどのような生活を送っているのでしょうか?

13年も隔離されていたジーニーとは?

ジーニーは親からの虐待によって幼い頃から13年も監禁生活を送りました。

このような社会から隔離されて育った子どもを隔離児と言います。

なぜ、親は彼女を監禁するようになったのでしょうか?

また、監禁生活はどのようにして終わりを迎えたのでしょうか?

※ジーニーは被害者の仮名です。本名に関する情報はありますが、ご本人がご存命である可能性に配慮し、本記事では被害者の名前は仮名で表記し、事件内容を主にしています。

ジーニーの生まれ

ジーニーは1957年にアメリカのある家庭で4番目の子どもとして生まれました。

ただし、上2人は亡くなっていて、家にいたのは兄1人でした。

家庭での力関係は、母親が目が悪かったこともあり、家族の誰も父親に逆らえない環境だったそうです。

監禁の理由

ジーニーが生後1歳を過ぎた頃、医者から発達が遅れている可能性があると診断されます。

父親はその診断を過剰に受けてしまいます。

そして、彼女を監禁するようになりました。

監禁された生活

ジーニーは便器が付いた幼児用の椅子に裸で拘束され、暗い部屋に閉じ込められました。

彼女が音を立てると、父親は暴力を振るったり恐ろしい顔を見せて威嚇したりなどしたそうです。

また、幼い頃の彼女が他人と接したのは、これら父親からの酷い対応だけでした。

食事はベビーフード・オートミールが与えられ、まれに卵が与えられただけでした。

その苛酷な監禁生活は13年も続くことになります。

父親以外の家族の対応

ジーニーを監禁したのは父親でした。

彼女には兄がいましたが、監禁が始まった頃はまだ幼かったこともあり、父親に逆らえませんでした。

母親も目が悪いこともあり、兄と同様に父親に逆らえませんでした。

また、母親の目は電話ができないほど悪く、外部に相談をすることもできなかったそうです。

監禁生活の終わり

父親と母親の間では、ジーニーの監禁は12歳までと約束していたそうです。

そのため、父親に逆らえない母親は彼女の監禁を仕方なく我慢していたと言われています。

しかし、その約束は守られず、12歳になっても彼女の監禁生活は続きました。

ジーニーが13歳のとき、母親は父親と口論になり、ついに彼女を連れて家を出て行きます。

ここで長かった彼女の監禁生活は終わりました。

救出されたジーニーのその後は?

母親に連れられて家を出たことで、ジーニーの監禁生活は終わりました。

しかし、隔離児として育ったジーニーは、その後に一般的な社会生活を送ることはできたのでしょうか?

ジーニーの状態

監禁から解放された直後のジーニーは13歳で身長が137cm体重は26.7kgしかなく、その体格は6歳児ほどのものでした。

また、言葉は話せず、排泄の習慣はなく、立つことはできずに手足をついてウサギのように歩くことしかできませんでした。

彼女は母親の祖母の家で3週間ほど過ごした後、生活保護を求めて援助施設を訪れます。

その際に、母親はジーニーも連れて行きました。

明らかに様子がおかしいジーニーを見た職員が事情を確認したことで、監禁事件が発覚します。

事件が発覚すると、新聞では事件が記事になり、両親は児童虐待で告訴されます。

しかし、父親は出廷を命じられた直後に拳銃自殺をしました。

研究対象として注目を集める

ジーニーは1歳~13歳までを隔離児として過ごしました。

社会や他人と接することなく育った子どもであることから、世界中の科学者から研究対象として注目を集めました。

特に、臨界期仮説の検証ができると考えられました。

臨界期仮説とは、言語をスムーズに習得できる期間は一定の年齢(臨界期)までという説です。

その研究に協力することで、彼女は研究助成金を得ていました。

ジーニーは言語の勉強を始めると、すぐ幼児の話し方である二語文はできるようになります。

しかし、それ以降は会話の上達がなかなか見られなかったそうです。

研究によって、その原因は臨界期を過ぎると脳で正しく言語処理ができなくなると考えられました。

ただし、彼女にはもともとは発達障害を示唆されていました。

そのため、彼女が言語を習得できないのは、隔離児と発達障害のどちらの影響によるものか判断できず、臨界期仮説の検証となるのか疑われるようになります。

臨界期仮説の検証が成り立たない可能性が出てきたことが主な原因となり、彼女への研究助成金は打ち切りにされてしまいました。

転々とする生活

監禁から解放されたジーニーは生活の場を里親や病院、施設など転々とするようになります。

一時は手術によって視力を取り戻した母親に引き取られたこともありました。

しかし、ジーニーの乱暴な態度から一緒に生活することが困難と判断します。

ただし、後に母親は監督権を取り戻し、彼女は施設で暮らすことになります。

母親は2003年に亡くなりますが、その後も彼女は施設で生活をしているそうです。

ジーニー以外にもいた隔離児

ジーニーは幼い頃から13年も監禁されました。

このような監禁児の事例はジーニー以外にもあります。

また、その事例の中には日本のものもあります。

では、他にはどのような事例があるのでしょうか?

アンナ

アンナは1932年にアメリカで生まれ、生後5カ月~5歳になるまで物置で監禁されていました。

母親がミルクを与えるとき以外は他人との接触はなく、窓もない暗い場所で過ごしました。

5歳のときに発見されて救助されたときの状態は、周囲に無関心で反応を示さず、ベッドに寝ることしかできませんでした。

救出から1カ月ほどすると、身体能力や栄養などの面では回復します。

しかし、その他の面の回復はしませんでした。

その後、食事や排泄などの習慣を覚え、歩けるようにもなりましたが、10歳のときに病気で亡くなってしまいます。

そのときのアンナの精神年齢は2歳ほどだったと言われています。

イザベル

イザベルは1932年にアメリカで生まれ、6歳まで母親と一緒に監禁されていました。

母親は視力と聴力に障害があり、知的能力にも難があって読み書きや会話ができず、身振りで意思疎通をしていたそうです。

そのため、母親とは一緒でしたが、教育を受けることはできませんでした。

イザベルが6歳になったとき、母親はイザベルを連れて監禁からの脱出に成功します。

救出直後のイザベルは会話ができず、周囲に強い警戒心を持っていました。

また、食事も牛乳とクラッカーしか受けつけなかったそうです。

しかし、2年の学習で正常な知的能力を取り戻すことに成功しました。

日本にも隔離児はいた?

日本でも隔離児のような監禁事件が起こったことがあります。

その事例の1つが2018年の三田市知的障害者監禁事件です。

父親は、精神疾患で暴れて近所から苦情が出ていたことや、近所に迷惑をかけるなどと考え、息子を16歳から25年も監禁していました。

監禁されていた場所は、庭のプレハブ倉庫に高さ1m、広さ1畳ほどの檻でした。

スペースが極端に狭いことから、体育座りの状態にならないと檻には入れなかったようです。

檻に入れられるのは父親が仕事をしている間で、父親が帰宅しているときは檻から出されていました。

ただし、食事と風呂の頻度は2日に1回だったそうです。

ジーニーたち隔離児の影響は救出後も続く

隔離児の事例は世界にあり、似たような事例であれば日本にもあります。

監禁されている際の被害も深刻ですが、救出後もその影響は続きます。

中には、言語の習得や一般的な生活習慣を身につけられず、社会での生活が困難となる場合もあります。

このような酷い事件が起こらないことを祈りましょう。

また、もし子どもが虐待されていることを発見した場合は、児童相談所や警察などに相談するようにしましょう。