1970年の夏、北海道の日高山脈で日本中を恐怖に包んだ恐ろしい出来事が起こりました。
現在では「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」として語り継がれているその事件は、クマによる被害が深刻化している今、知っておくべき惨劇なのかもしれません。
若き3人がヒグマに引きちぎられるという、恐ろしい事件ですが、同行していた2人はなんとか生き延びています。
生死を分けた恐怖体験を経て、福岡大ワンゲル部生き残りの人物は、その後何を語っていたのでしょう。
また、この事件には死の直前まで執筆された「興梠メモ」や実物のヒグマが残されています。
福岡大ワンゲル部生き残りのその後を追いながら、読むのに覚悟が必要といわれている「興梠メモ」や事件を紐解いていきましょう!
目次
福岡大ワンゲル部ヒグマ事件とは?人喰い熊の異常な執着心がヤバすぎる?
1970年に起きた「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」は、現在でも人々を震撼させ続けています。
同年7月28日には、福岡大学ワンダーフォーゲル部の3人が行方不明という見出しが新聞に記載されました。
そして30日にはクマに食い殺されていたという目を覆いたくなるような文字が並んだのです。
まずは「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」の詳細を見ていきましょう。
1970年7月25日 夏季合宿で日高山脈に入った5名!テント周辺にヒグマが出現!?
【福岡大学ワンダーフォーゲル部メンバー】
リーダー :竹末一敏(大学3年 当時20歳)
サブリーダー:滝俊二(大学3年 当時22歳)生還
メンバー :興梠盛男(大学2年 当時19歳)
メンバー :西井義春(大学2年 当時19歳)生還
メンバー :河原吉孝(大学1年 当時18歳)
1970年7月14日、北海道の最難関と呼ばれている日高山脈の芽室岳から登山を開始した福岡大ワンゲル部。
予定では13日間をかけてペテガリ岳までたどり着く日程を組んでいたといいます。
山脈を南に南下する形で進んでいたメンバーば、25日にカムイエクウチカウシ山の九ノ沢カール付近にテントを張りました。
その日の16時30分に、テントから6.7mの距離にヒグマを発見!
テントの外に置いていたキスリング(下記のような登山用バッグ)をヒグマが漁り食料を食べ始めました。
隙を見てキスリングをテントに入れたメンバーは、大音量でラジオをかけ一度はヒグマを遠ざけたようです。
しかし夜21時ごろにヒグマはテントに再度近づき、テントに拳サイズの穴をあけたので、メンバーは交代で見張りを立て就寝しました。
この夜はかなり怖い思いをしたのではないでしょうか。
しかし、ヒグマの恐怖は翌日、さらに増すことになったのです。
7月26日 救助要請のため2名が下山!?救助要請は出来たのか?!
ヒグマを目撃した翌日の26日、明け方4時半頃、ヒグマはテントに侵入しようと近づき、メンバーとヒグマでテントの引っ張りあいになったようです。
しかし、無理だと判断したリーダーの指示で、テントの反対側の入り口から脱出。
その後ヒグマはテントの中のキスリングを漁っていたといいます。
さらにリーダーの指示で、サブリーダーの滝俊二さんは、河原吉孝さんを連れて救助要請へと向かいました。
八ノ沢付近で北海学園大学の登山部と出会い、彼らに救助要請を頼んでいます。
この時出会った北海学園大学の登山部もヒグマに遭い、下山する途中だったようです。
救助要請を彼らに託した滝俊二さんと河原吉孝さんは、再び道を引き返しメンバーと合流しました。
5名は合流出来たがまさかの状況に?夕暮れに2度目のヒグマ襲撃が!?
救助要請に向かった滝俊二さんと河原吉孝さんは、再度メンバーと合流しています。
しかし同日26日の16時30分頃、再度テントを張るとヒグマがまたもや出現!
ヒグマから逃げ、近くにテントを張っていた鳥取大学登山部のテントに避難することを計画したようです。
しかし、この避難の途中で、メンバーはヒグマに襲撃され各々バラバラに身を隠しています。
この時リーダーの竹末一敏さん、サブリーダー滝俊二さん、西井義春さんの3名は共に逃げており、他2名とははぐれてしまいました。
後にわかったことですが、この時大学1年の河原吉孝さんは、ヒグマに襲われ死亡しています。
竹末一敏さん達3名はその後、鳥取大登山部のテントに避難。
鳥取大登山部が下山すると、岩場に隠れながら夜を明かしたようです。
7月27日 最後の襲撃が?ヒグマ嚙みちぎられた遺体が酷すぎる!?
翌27日はガスが立ち込めており、視界はわずか5m程でした。
リーダーの竹末一敏さん、サブリーダー滝俊二さん、西井義春さんの3人は前日にはぐれたメンバーを探そうとしますが、ここでまたヒグマが襲い掛かります。
ヒグマがうなり声をあげ襲ってくると、先頭にいたリーダーの竹末一敏さんはヒグマを押しよけ追われながら逃げていきました。
すぐに、サブリーダーの滝俊二さんは西井義春さんを連れて下山。
結果的にこの二人が福岡大ワンゲル部の生き残りとしてその後、事件を詳しく語ることになったのです。
その後の捜査で28日に竹末一敏さんと河原吉孝さん、30日に興梠盛男さんの遺体が発見されています。
いずれも衣服は剥がされ、全身に爪痕があり、顔の認識は難しい状態で内臓が露出した状態だったようです。
7月29日 ヒグマ射殺!3名の遺体は現場で荼毘に付された!?
27日にハンター10名が入山する予定でしたが、ヒグマは手負のため10名のみでは危険と判断、28日から本格的な捜査に乗り出しています。
3人を殺害したヒグマは29日の16時30分にハンターによって射殺されました。
ヒグマは一度手に入れたキスリング(獲物)を奪われたとして、メンバーを執拗に追いかけたといわれており、クマの執着心の強さを感じる事件となりました。
また、一説では自分のえさ場に入ってきた人間を排除しようと、執拗に追いかけたともいわれています。
射殺されヒグマは4歳のメスクマで、当時のハンターの風習に従いこのヒグマの肉をハンターたちが食べています。
しかし、胃の中から3人の遺体は出てこず、食べる為ではなく排除目的で襲われたと結論づけられました。
この事件の被害者3名の遺体は、31日に現場で荼毘に付され、8月1日明け方に遺骨を拾い遺族の元へ届けられました。
福岡大ワンゲル事件の現場、カムエク八の沢カールに登ったことある。被害者3人を荼毘に付した大きな岩と追悼プレートが生々しく残っている。こちらは、まだほんの50年前。 #ダークサイドミステリー
— スイカ (@Densuke_Suika) August 6, 2019
福岡大ワンゲル部生き残りのその後は?興梠の実物メモが怖すぎ!?
福岡大ワンゲル部の生き残りとなったサブリーダーの滝俊二さんと西井義春さんは、命からがら下山しています。
福岡大ワンゲル部の生き残りとして、その後どうなったのか、注目され続けていますが、当時の記憶はかなりつらいもののようです。
さらに、逃げる途中にはぐれたメンバーの興梠盛男さんは、最期の時まで手記を書き続けており、遺品として残されていました。
凄惨な事件を語るうえで、外せない福岡大ワンゲル部の生き残りの人物たちのその後や、興梠メモを紹介します。
生存者①副部長 滝俊二さん
存命ならば75歳と高齢になった滝俊二さん。
福岡大ワンゲル部の生き残りとして、その後どう過ごしているのか話題になりますが、当時のニュースでは顔にモザイクがかかり、人前に出る事を避けていたようです。
彼は事件後に、ヒグマに襲われメンバーがバラバラになった際に、当時大学1年の河原吉孝さんが悲鳴を上げ「畜生!」と叫びながら襲われたと語っています。
2016年にはNHKで当時の様子を語っていたこともあったようです。
滝俊二さんについては、福岡大ワンゲル部の生き残りのひとりとしてその後を話題にされることがありますが、特に報道などはされていません。
一説では、後遺症は残らなかったものの、ヒグマに襲われた際に重傷を負ったともいわれています。
しかし、生き残ったことが奇跡ともいえる事件なだけに心の傷が完全に塞がることはないのかもしれません。
生存者②新入部員 西井義春さん
上記写真は事件の舞台となった八ノ沢カールです。
約50年前この地でヒグマに襲われ、福岡大ワンゲル部の生き残りとしてその後に注目される、もうひとりの人物が、当時大学2年生の西井義春さんです。
彼も存命ならば71歳程でしょうか。
彼は事件発生時、靴下で逃げ出したようで、最後にヒグマに襲われた際にリーダーの竹末一敏さんが「死んだふりをしろ」と叫んだことを証言しました。
西井義春さんも滝俊二さんと共に、過去にNHKの番組に福岡大ワンゲル部の生き残りのその後として出演しています。
彼に関しても詳しい情報はありませんが、1970年代はまだまだ大学進学率が低かったことから、エリート街道を進んでいたことは確かです。
そして実はこの事件の背景を探ってみると、同じ頃同じ山には複数の大学メンバーが登っていました。
そのひとつ北海学園大学のメンバーとして登山していた吉田さんは、2023年に初めて取材に応じ当時の様子を振り返っています。
自身も同じヒグマに襲われており、福岡大ワンゲル部の身に起こったことは、自身にも起こりうることだったと恐怖を語っていました。
彼もまた、福岡大ワンゲル部事件の生き残りとして、その後を生きるひとりと言えるのではないでしょうか。
ワンゲル部メンバー興梠の実物メモは死の直前まで書かれていた?!
「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」は、あまりにも悲惨な結末をむかえた事件として、語り継がれています。
現在でも話題になる理由のひとつは、福岡大ワンゲル部の生き残りの人物がおり、その後の生き方に注目されていること。
そしてもうひとつの理由が「興梠の実物メモ」と呼ばれる存在です。
当時大学2年生の興梠盛男さんが、死の直前まで書き記したもので、恐怖を今に伝える大切な資料となっています。
興梠メモには、ヒグマの出没からの細かな記載があり、26日にみんなとはぐれてからの記載もありました。
興梠メモによると、26日のヒグマの襲撃で河原吉孝さんが殺されたといっています。
その後、リーダーの竹末一敏さんが呼ぶ声が聞こえたようですが、濃い霧でヒグマの位置がわからず出ていけなかったようです。
再びヒグマに追われ、なんとかテントまでたどり着き潜り込んでいます。
翌27日には、早く博多に帰りたい不安で恐ろしい、と書いてありました。
しかし、ヒグマが近くにいて出れないこと、15時以降の文は字が消えており判読不明。
最後の文字は「またガスが濃くなって(判読不明)」おそらくこの後、テントの中でヒグマに襲われたものと見られています。
福岡大ワンゲル部を襲撃したヒグマの剥製が展示されている?!
「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」で人を襲ったヒグマの剥製は、中札内町にある日高山脈山岳センターの中に展示されています。
ヒグマの肉は、ハンターたちが食べており、頭部には違うクマのものがつけられていますが、毛皮は実物のヒグマのものです。
実際に見てみると思ったよりも小柄だ、という意見が多く寄せられていました。
福岡大ワンゲル部の生き残りの2人は、ヒグマの恐ろしさを伝えていた
「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」ではヒグマに対しての知識不足が指摘されました。
福岡大ワンゲル部の生き残りとして、その後滝俊二さんと西井義春さんは、「当初襲われても、ヒグマが物珍しいという気持ちが先にあった」と語っています。
彼らの住んでいた九州に野生のクマは生息していないといわれ、クマへの対策も不十分だったのでしょう。
福岡大ワンゲル部の生き残りとして、その後を語られる2人はヒグマの恐ろしさを決して忘れてはいけない、と後世に伝えようとしていました。