三島由紀夫の作品を読んだことがある人もいるでしょう。
また、有名人なので、作品を読んだことがなくても「名前は知っている」という人もいるでしょう。
では、その三島由紀夫がクーデターを起こそうとして、割腹自決したことはご存知でしょうか?
この事件は三島事件と呼ばれ、当時の世間に大きな衝撃を与えました。
なぜ、三島由紀夫は三島事件を起こしたのでしょうか?
目次
三島由紀夫ってどんな人物?
三島由紀夫は有名であり、書店に行けば作品が多く並んでいます。
しかし、これらの作品を読んだことがない人もいるでしょう。
まずは、三島由紀夫がどのような人物であるのか確認しておきましょう。
川端康成も認めた小説家
三島由紀夫は日本を代表する小説家の1人であり、その人気は海外にも広がっています。
あの川端康成も、自身が日本人初のノーベル文学賞を受賞する以前に受けたインタビューで、「日本人で最初にノーベル文学賞をもらうのは三島由紀夫以外に考えられない」と即答したそうです。
また、実際に三島由紀夫は日本人初のノーベル文学賞の候補となっていました。
どのような作品を書いていた?
三島由紀夫の代表作の1つは「仮面の告白」です。
内容は同性愛者の主人公が思い悩んで苦悩する様子を描いたものとなっています。
「仮面の告白」が発表されたのは1949年です。当時はセクシュアルマイノリティに対してタブー視する傾向が強くありました。
LGBTQに関する問題は近年にようやく注目を集め始めましたが、三島由紀夫は終戦直後の時代からすでにこれらの問題に着目していたことになります。
そのため、リアルタイムでこの作品を読んだ人は強い衝撃を受けたことでしょう。
他にも、「金閣寺」「潮騒」「禁色」「命売ります」など、有名な作品が多くあります。
活動家でもあった
三島由紀夫は戦後の日本の変化や海外からの影響などを受けて、内乱や革命などが起こることを危惧していました。
そのため、民間防衛組織の必要性を考えて祖国防衛隊を結成します。
しかし、1万人規模の組織を目指しましたが、資金問題などから構想を修正することになります。
その後、祖国防衛隊は100名ほどの少数精鋭組織に構想変更されて、「楯の会(たてのかい)」となりました。
会員になるには、自衛隊に1カ月の体験入隊をして、脱落せずに軍事訓練を行うことでした。
また、会員になった後も自衛隊に引けを取らない訓練が行われていたそうです。
三島事件には、この楯の会が関係しています。
三島由紀夫が起こした三島事件の経緯
三島事件は三島由紀夫が立ち上げた楯の会が起こしたものです。
また、三島由紀夫も実行犯に含まれています。
では、その三島事件とはどのような事件だったのでしょうか?
詳しく解説していきます。
陸上自衛隊駐屯地を訪問
三島事件が起こったのは1970年11月25日です。
その日、三島由紀夫は森田必勝を含む楯の会メンバー4人を連れて陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地を訪問します。
事前に訪問の約束を取り付けていたので、三島由紀夫らはすんなりと総監室に通され、総監と面会します。
総監を監禁
三島由紀夫と総監がしばらく対談をすると、三島由紀夫の合図をきっかけにメンバーらが総監を拘束します。
また、机などの室内にあった物でバリケードを作り、総監を人質に総監室に立てこもりました。
途中、自衛隊員が突入して乱闘にもなりましたが、三島由紀夫らは応戦してそれらを押しのけてしまいます。
三島由紀夫からの要求
総監を人質にして総監室に立てこもった三島由紀夫らは、部屋の外にいた自衛隊員に要求書を渡しまします。
その要求書の主な内容は、指定の時間までに市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させ、三島由紀夫の行う演説を聞かせることでした。
また、演説中に攻撃をしないことも含まれていました。
もし、これらの要求が守られず、破られた場合は総監の命を奪うと伝えられたことから、自衛隊員たちは本館前に集められます。
バルコニーで演説
本館前には多くの自衛隊員たちが集まり、新聞やテレビなどの報道陣も集まったことで現場は大騒ぎとなります。
三島由紀夫はバルコニーに立ち、多くの人を前に演説をしました。
その様子は写真付きで新聞に載ったり、ニュースで映像が流れたりなどしました。
現在でも、ネットで当時の写真や映像を見ることができます。
その演説の主な内容は、自衛隊を国軍化することと、象徴天皇制の批判です。
これらを改善するためには憲法の改正が必要であり、自衛隊が自ら国軍化を求めてクーデターを起こすように訴えかけることが目的だったと言われています。
しかし、三島由紀夫は演説でマイクを使わなかったことから、報道のヘリの音や自衛隊員たちからの野次などによって、うまくその声は届きませんでした。
また、自衛隊たちの心も動きませんでした。
そのため、三島由紀夫は30分ほどの演説を予定していましたが、10分ほどで切り上げることになります。
割腹自決
演説を終えて総監室に戻った三島由紀夫は上半身裸で正座をして、割腹自決をしました。
メンバーの森田は介錯のために、三島由紀夫の首に3太刀を振り降ろします。
介錯とは、割腹する際に首を切り落として苦痛を軽減することです。
しかし、森田が三島由紀夫の首を切り落とせなかったことで、最後は別のメンバーである小賀が介錯したと言われています。
また、森田も割腹自決をして、残った3人のメンバーは逮捕されました。
三島由紀夫は割腹で5cmもの深さまで刃物を突き刺しました。
そのため、遺体は内臓が飛び出ていたそうです。
三島事件のその後
三島事件は三島由紀夫が起こした事件として、当時は大きな話題となりました。
その三島事件に対しては「常軌を逸している」と思う人もいれば、「信念を貫いた行動でかっこいい」と思う人もいて、賛否が分かれました。
また、海外のメディアでも取り上げられ、「三島の自決は意味をよく検討すべき重大なこと」「日本の若者の将来に強い影響を与えるだろう」などと論じられました。
実際に、三島由紀夫のかっこいい姿を見て、いろいろな決意や行動をした若者もいたと言われています。
三島由紀夫が命懸けで行動を起こした理由
自らの信念を多くの人に訴えかける姿はかっこいいですが、総監を人質にしたり、自ら命を絶ったりなどは良いこととは言えないでしょう。
では、なぜ三島由紀夫はこれらの行動をとったのでしょうか?
政治への不満
三島由紀夫は戦後に公布・施行された日本国憲法が国際政治の力関係で政治的に押し付けられたものと考えていたそうです。
また、象徴天皇制の批判して、天皇を元首にした政治こそが日本の正しい姿とも考えていたとも言われています。
特に、第9条を遵守すれば他国の侵略を受けた場合に国は滅びるしかないと考えたことから、自衛隊の国軍化を訴えかけたと言われています。
しかし、これらを実現するには憲法の改正が必要であり、政治家に任せていては実現は叶いません。
そのため、自衛隊に直接呼びかけて、政府に対してクーデターを起こそうとした結果が三島事件です。
考えや行動は極端なものであり、成功はするとは思えないものでした。
三島由紀夫本人もクーデターが成功するとは思っていなかったと考えられていて、言葉として訴えかけることが目的だったとされています。
三島事件が再び注目される理由
2020年で三島事件から50年が経過しました。
50年という節目を迎えて、三島事件が再び取り上げられるようになったことで、事件のことを知った人もいるようです。
また、50年が経過した現代では国民の政治への不信が強まっています。
しかし、今では三島由紀夫のように信念を貫いた行動を起こすことが難しい世の中となっています。
そのため、三島由紀夫の行動をかっこいいと思う人も増えているようです。
自決を選んだ理由
三島事件が起こる少し前に、国会議事堂前で青年が焼身自殺をする事件がありました。
その青年は覚醒書と書いた遺書を残していました。
覚醒書には政治の批評が綴られていて、世間に目を覚ましてほしいという願いが込められていたそうです。
1人の青年が声をあげるだけでは、多くの人に声は届きません。
しかし、命をかけることで多くの人に声が届くようになると考えたと言われています。
また、三島由紀夫はその青年の行動に大和魂を感じ、同じように命をかけて言葉を訴えかけたと考えられています。
三島由紀夫は首を落として自らの言葉を伝えた
三島由紀夫の考えや行動は極端であり、賛否が分かれるでしょう。
しかし、自らの信念を貫き、政治への不満を大きな言葉にするそのかっこいい姿は、現代だからこそ刺さるものもあります。
今でもネットなどでは三島由紀夫の演説する姿の写真や映像を見ることはできます。
事件から50年が経過したことを機に、再び三島由紀夫の作品や言葉に触れてみるのも良いでしょう。