皆さんは1994年に起きた大阪愛知岐阜連続殺人事件をご存知でしょうか。
これは、大阪府、愛知県、岐阜県の3府県で9月28日~10月8日不良少年たちによって起きた、日本犯罪史上初めて未成年に死刑判決が下りた事件です。
その死刑判決から13年が過ぎ、犯行にかかわった主犯格3名の死刑執行について気になる方も多いでしょう。
さらにプロ野球選手が加害者という噂や、事件の主犯3人の生い立ち、事件の詳細などについて追ります。
目次
大阪愛知岐阜連続殺人がヤバすぎる!少年が4人を惨殺?!
大阪愛知岐阜連続殺人事件は、主犯格3人が少年であったこと、そしてその3人全員が死刑になったことなどから、ヤバすぎる事件として有名です。
また、この事件の死亡者は4人、負傷者は1人で、全員リンチされました。
では、なぜヤバすぎる事件なのか、さらに詳細を追っていきます。
大阪愛知岐阜連続殺人とは
大阪愛知岐阜連続殺人事件とは1994年9月28日〜10月8日にかけて大阪府・愛知県・岐阜県の3府県で発生した不良少年らによる連続殺人事件です。
この一連の事件では計10人が逮捕され、うち主犯格3人は全員が当時少年でありながら控訴審までに死刑判決を言い渡され、最高裁判所で上告を棄却する判決を受けたことで死刑が確定しました。
引用元:Wikipedia
また、この事件は、発生場所から大阪事件・木曽川事件・長良川事件とも呼ばれています。
では、その3つの詳しい事件内容について見ていきましょう。
大阪リンチ事件
最初の事件である大阪リンチ事件は、1994年9月28日に大阪市中央区の繁華街で起きた事件です。
この事件では、主犯3人と共犯少年1人の計4人が男性1人を恐喝した末に集団リンチで殺害しました。
そして、死体は高知県の山奥に遺棄され、その2ヶ月後に白骨化した状態で発見されたそうです。
大阪事件と木曾川事件の間にも恐喝事件が!
じつは、大阪リンチ事件と2番目に起きた木曽川リンチ事件との間にも恐喝事件が起きています。
この事件は細かく分けると3件起きており、恐喝事件1件のほか、暴行事件2件の合計3件です。
死亡者は出なかったものの、負傷者は出る事件となりました。
木曽川リンチ事件
2番目に起きた木曽川リンチ事件は10月6日に発生しました。
主犯3人は大阪事件の後に3人のうち1人の地元である愛知県へ逃亡し、その仲間達と行動を共にしていたそうです。
しかし、その仲間と主犯3人とのトラブルを発端に主犯3人は仲間の1人を集団リンチの末に殺害しました。
そして、その死体を近くにあった木曽川に流して処分するつもりでしたが、河川敷には草が生い茂っており川に辿り着けませんでした。
そのため、川に処分することを諦め、木曽川河川敷の雑木林に放置してその場を去ったそうです。
この死体は6日後の10月13日に発見され、白骨化が進み、死因の特定が困難なほどに酷い状態でした。
長良川リンチ事件
3番目に起きた長良川リンチ事件は、木曽川リンチ事件の翌日である10月7日深夜に発生しました。
主犯3人と共犯3人は、愛知県のボーリング場にいた男性3人組に因縁をつけて恐喝し、拉致したそうです。
そして、暴行と金銭の巻き上げを行なって解放するつもりだった主犯2人でしたが、残る1人は口封じのために殺害を考えていました。
結局、主犯3人は男性3人組を長良川河川敷に連れていき、3人のうち2人を暴行して殺害し、残り1人は運転手として利用したそうです。
運転手として利用された1人は主犯2人が大阪に連れていき、難波駅付近で身柄を解放しました。
大阪愛知岐阜連続殺人の犯人の死刑執行はいつ?
当時18才~19才で未成年だった主犯3人の年齢は、現在では48才~49才になります。
2011年に死刑判決が確定後、10年以上が経過しましたが、現在のところ死刑執行は行われていません。
しかし、もう10年が経っていることから、いつ執行されても遅くはない段階だと感じます。
【自業自得】
4人リンチして殺害した殺人少年3人「少年法あるから死刑とかないっしょw反省してませ〜んw」
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全員死刑
↓
殺人少年3人「話が違う!嫌だ死にたくない!助けて!」
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全員死刑 pic.twitter.com/qxwD3izBiI— パラノーマルちゃんねる (@paranormal_2ch) September 18, 2023
主犯格は指名手配され逮捕!裁判ではふざけた様子も?
事件当時は未成年だった3人は、指名手配で逮捕されても「少年法で守られている」と、タカをくくっていました。
裁判での様子は、全く反省する様子を見せることはなく「どーせ少年院行っておわり」「死刑なんてありえない。だから反省しません」と遺族に対して煽る言葉を口にする有様でした。
犯人は死刑にならないと勘違いしていた?
これは少年法について3人が勘違いしていたことが原因のようです。
確かにもし犯人たちが17歳であれば、少年法により死刑は免れるところでした。しかし18才未満は、18才以上に適応されません。
また、わずか数日間で4人を残虐な方法で殺害したことや、裁判の時に遺族を睨みつけたり、「反省なんてしません」と発言し笑うといった態度から、更生できる可能性はゼロと思われたのです。
よって主犯格だった3人に未成年として初の死刑執行が確定しました。
主犯格3人の死刑は執行された?
現時点で主犯格3人の死刑はまだ執行されていません。
死刑が確定後、10年が経過してますが執行に時間がかかっている理由は、オリンピックがあったことや、コロナの流行で、一時的に執行がストップされたことが背景にあるようです。
ただ今はその2つとも終わっているため、再び死刑執行は再開されています。
大阪愛知岐阜連続殺人の主犯格は3人!プロ野球選手も犯人グループにいた?
94年の大阪愛知岐阜連続リンチ殺人の元少年死刑囚。未だに刑は未執行。一方で何の罪もない犬や猫が、年間数万頭も殺処分されている。生きる価値のない死刑囚と罪のない小さな命。明らかに税金の使い方を間違えている。死刑囚に税金を投入するくらいなら動物たちの命を救って!pic.twitter.com/clFbZgtfMb
— 世間はこいつらを忘れてはならない!この事件を風化させてはならない! bot版 (@bot_never4get7) September 26, 2023
犯人①KB:小林正人(犯行当時19歳)
小林正人は主犯とされる3人の中で唯一、第一審。控訴審ともに死刑判決を受けた主犯格中の主犯格です。
小林正人は1975年3月19日に愛知県一宮市で生まれています。
実母は高齢出産だったため産んだ直後に急死し、実父は男手ひとつで育てていけないと判断し、弟夫婦に養子として預けました。
しかし、養母の弟4人のうち3人は暴力団という環境と、預けられた直後に養父の事業が失敗し破産するという状況に置かれ、極度に孤独な幼少期を過ごしました。
幼少のころから盗み癖があった!?
孤独な幼少期を過ごしていた小林正人は、頻繁に窃盗を繰り返していました。
また、そこに追い打ちをかけるように小学3年生の時に窃盗の濡れ衣を着せられたことにショックを受け、非行はさらに悪化していきます。
しかし、小林正人が当時お世話になっていた児童相談所・教護院の記録によると、中学2年生の時にはまだ小学校中学年程度に感じられ、協調性はなく気も弱かったそうです。
一度就職するも、退職し暴力団へ
親からの愛情をまともに受けずに精神が未熟なまま育った小林正人は、1989年2月に教護院「愛知学園」に入所し、翌年3月に卒業するまで落ち着いた生活を送っていたそうです。
しかし、卒業後は愛知県稲沢市の会社に就職するも、わずか1ヶ月で退職し、その後は無職のまま悪友らとシンナーなどの非行に走っていきました。
そして、小林正人は何度も事件を起こして少年院入りを繰り返し、少年院で知り合った人を頼って暴力団に所属することとなり、通行人を恐喝することで金品を得ていたといいます。
犯人②KM:小森淳(犯行当時19歳)
小森淳は第一審では小林正人の部下的な役割だったと判断されたことから無期懲役を言い渡されましたが、控訴審では小林正人と罪の重さに差はないと判断され、死刑判決を受けました。
小森淳は1975年7月21日、大阪府松原市に生まれ、他の主犯2人と比べて恵まれた普通の家庭に生まれたそうです。
小学校までは普通の生徒でしたが、中学生になってから徐々に非行に走るようになっていきました。
中学2年生で野球部を退部してからは、悪友らとつるみ始め、バイクの窃盗やシンナーにふけるようになります。
高校中退し暴力団へ所属
小森淳は大阪府の工業定時制高校に進みますが、1年生の夏に中退しています。
中退後は飲食店、引越し業者、自転車店などを転々としながら働きますが、どれも長くは続かなかったようです。
そして、1992年の春頃に当時交際していた女性の紹介で暴力団の元組員と知り合いました。
小森淳とこの元組員は次第に親しくなり、1994年4月頃にこの元組員は、山口組の傘下組織の舎弟となったため、小森淳も同じ組織で活動し始めました。
その後、小森淳は、同年6月頃に大阪市内のホストクラブで働き始め、そこで共犯者と知り合っています。
犯人③HG:芳我匡由(犯行当時18歳)
芳我匡由は小森淳と同じく、第一審では無期懲役を言い渡されたものの、控訴審では死刑判決を受けました。
生年月日は1975年10月23日で、大阪府大阪市西成区で元暴力団組員の父親と、タバコをふかしながらゲーセンに入り浸るような母親の元に生まれています。
7人兄弟の4番目の子供として生まれた芳我匡由の家庭はかなり貧しく、小学生の時はボロボロの服で学校に通ってたことを理由にいじめに遭っていたそうです。
また、女手1つで子育てをしていた母親もほとんど家事をしなくなっていきました。
過酷な生活にも希望の光が差し込む
そんな過酷な生活を送ってきた芳我匡由にも楽しい時期がありました。
小学4年生から大阪市内の少年野球チームで野球に打ち込み、優しいコーチを兄のように慕っていたそうです。
また、芳我匡由の後輩には、後にパリーグで強打者として活躍した元プロ野球選手がいるとの情報も見つかりました。
しかし、家庭環境はさらに悪化し、小学6年生の頃からシンナーなどの飛行に走るようになっていったそうです。
母親の蒸発により非行はさらに悪化
中学2年生の頃に芳我匡由の母親が蒸発したことで、芳我匡由は窃盗と少年院入りを繰り返し、非行はさらに悪化していきます。
そして1991年、父親と死別すると少年院から仮退院をして、父親が働いていた運輸会社に就職しましたが、長続きせずに辞め、その後も犯罪を繰り返しながら職を転々としました。
1992年、芳我匡由は窃盗・恐喝など複数の犯罪により逮捕され少年院に送られることになりましたが、送られるまでの間に女性と同棲し、入院中の同年に長男が誕生しています。
1993年、芳我匡由は少年院を仮退院し、神戸市内のパチンコ店スタッフや鉄筋工として働き初め、1994年には入院前から交際していた女性と婚姻届を提出しました。
しかし、その後はホストクラブで働き始めたことで複数の女性と関係も持ち、妻子への愛情を無くしたため、離婚したそうです。
犯人グループにプロ野球選手もいた?
大阪愛知岐阜連続殺人事件について調べると、「プロ野球選手」というワードがでてきます。
これは、加害者の1人が所属していた野球チームに、のちにプロ野球選手となった人物がいたためです。
このプロ野球選手の実名は明かされていませんが、調べていくと以下のような情報が見つかりました。
強盗殺人を起こした元プロ野球選手・小川博は無関係!
また、過去には元プロ野球選手である小川博が強盗殺人事件を起こした事例もあります。
小川博は高校時代に甲子園に3回出場したことがあり、イケメン投手として高校時代から人気でした。
大阪愛知岐阜連続殺人の犯人の死刑執行はいつ?
未成年の3人が起こした連続殺人として初の死刑判決が決まった「大阪愛知岐阜連続殺人事件」をまとめます。
「自分は少年法があるから、人を殺害しても死刑は免れる」と、安易に殺害を実行した若者たちの犯行に恐しさを感じる事件でした。
当初、自分たちの犯した罪に反省の気持ちはなかった3人ですが、心の底から反省をして、法の裁きを受け、遺族に対しての償いをしてほしいと願います。