【池田小学校事件】トイレが生死の分かれ目に?逃げた教師と宅間守の末路とは?

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2001年、大阪の大阪教育大学附属池田小学校でおきた「池田小学校事件」は、児童8名が亡くなるという悲劇を生み出しました。

被害者は1年生や2年生の児童。

この池田小学校事件はトイレに行く行かないが生死を分けたともいわれており、犯人の宅間守は精神的におかしい、狂っていた人物といわれています。

ーこの記事でわかることー

  • 池田小学校事件の真相
  • 池田小学校事件で逃げた教師がいた?
  • 池田小学校事件の犯人宅間守とは
  • 宅間守が池田小学校事件を起こした経緯

目次

【池田小学校事件】トイレに行く行かないが生死の分かれ目に?

ネットではグロすぎる事件とも呼ばれている池田小学校事件、犯人の宅間守は1階のテラス部分から侵入したといわれています。

2時間目も終わろうとしていた頃、2年南組で授業が早く終わった生徒たちを刃物で刺していったのです。

しかし、恐怖の時間は続き2年西組、2年東組、そして1年南組へと連鎖していきました。

事件当時、2時間目が早く終了し移動をしていた児童も多くいたといわれています。

生死を分けた逃げ場所として、後にトイレの個室が命を守ってくれたと証言されたのです。

池田小学校事件において、トイレで生死が分かれてしまったとはどういうことなのでしょうか。

トイレへ行った友達を待っていた女子児童にまさかの悲惨な結果に!

犯人の宅間守は、2001年6月8日10時12分に一回のテラスから学校内へ侵入。

はじめに2年南組の児童を襲いました。

このクラスはすでに授業を終えており、担任も教室にはいない状態だったので、宅間守はクラス内にいた児童4名を出刃包丁で刺し刺殺します。

この時、彼は無表情で淡々と殺害していったと後に語られました。

宅間守は、再度テラスを通って2年西組へ向かう途中でトイレに行っていた友達を待っていた児童が目に入ったのです!

宅間守はこの児童の右の脇腹を刺し、髪をつかみ上げて頸部を切り裂いたといわれています。

池田小学校事件では、

トイレにまだ入っていたらこの児童は殺されることがなかった

と後悔の言葉が添えられていました。

池田小学校事件の犯人、宅間守はトイレには入っておらず児童の中にはトイレに逃げ込んだおかげで助かった命が多々存在しています。

公式発表に疑問点

犯人の宅間守は、最初に2年南組を襲ったと公式発表されています。

しかし、隣のクラスで児童が刺され悲鳴が聞こえていたにも関わらず、教師のいる2年西組が平然としていたのはおかしいと疑問視する声があがりました。

このため、犯人の宅間守は初めに女性教師のいた2年西組を襲ったのではないか、ともいわれています。

一説では西組を襲った後、南組へ移動の途中でトイレ待ちをしていた児童を殺害したともいわれていました。

トイレへ行ったことで難を逃れた生徒がいた?!

後の体験談によると、2時間目の授業終了と共にトイレにいった児童は、トイレから出る直前に教師の叫び声を聞いたようです。

教師は子供たちに対し、

トイレから出ずに、カギをかけろ!

と叫んでいたとのこと。

当初は何が起こっているのかわからず、ただならぬ雰囲気だけを感じ取り、個室に入って震えていたといいます。

悲鳴や怒号が聞こえ、3時間目開始のチャイムが鳴っても悲鳴は続きました。

あまりの恐ろしさのあまり個室から出れなくなったようです。

そして45分程すぎた3時間目の授業が終わるころ、救急車やパトカーの音が鳴り響き恐る恐るトイレから出たと語っていました。

目の前には血塗られた廊下が広がっており、事件の詳細は担任から聞いたようです。

池田小事件では、トイレに逃げ込んだ児童が同じように助かっており、トイレが明暗を分けたといわれています。

池田小事件を検索するとなぜか「トイレ」という文字が出てきますが、トイレに入って助かった児童とトイレから出て殺された児童がいたことが、その理由と言えるでしょう。

池田小学校事件でトイレに行けなくなった生徒もいた?

この事件を振り返り取材に応じた渡辺怜奈さんは、事件当時に犯人宅間守に体当たりされたことを語りました。

彼女は、教室を逃げ出し階段の下で震えていたようです。

事件後に幼馴染が殺されたことを知って悲しみに暮れたことを明かしました。

また、事件後は恐怖が残りひとりでトイレに行けなくなったり、ひとりで行動できなくなったりする児童が増えたようです。

目の前で友達が刺殺されるという経験は、一生心の傷となって残っているのでしょう。

池田小学校事件のヤバすぎる全貌!逃げた教師と宅間守の衝撃の一言とは?

池田小学校事件は、トイレに逃げ込んだ児童が助かったという話題が注目されましたが、その他にも残虐すぎる犯行の様子や、児童を置いて逃げた女性教師が話題となっています。

また、事件当時の教師の行動についておかしいという意見も多くあがっており、当時1年西組の担任だった小林弘典さんは、現在命を守る訓練の大切さを訴え続けています。

教師たちの対応次第で、助かる命があったかもしれないといわれている池田小学校事件。

惨劇が起こってから悔やまれる、池田小学校事件の全容を細かく見ていきましょう。

池田小学校事件は児童8人が死亡!首を切り落とされた児童も?

池田小学校事件は、国内の防犯の甘さを指摘される事件となりました。

2021年6月8日、10時過ぎに犯人宅間守は開いていた門から学校へ侵入しています。

さらにこの時、2年南組の担任教師とすれ違っていたのですが、教師は会釈までして通り過ぎたといいます。

すでにこの時、宅間守はビニールに入れた出刃包丁を所持しており、もしもこの時何らかの異変に気が付いていたら池田小学校事件は起きていなかったでしょう。

怪しまれることなく、宅間守は一回のテラスから教室へ向かいました。

公式発表では南組から襲われた

宅間守が襲った順番は意見が分かれるところですが、公式な発表では2年南組が初めに襲われたとしています。

2年南組はすでに授業が終わっていて、担任教師は教室を離れていたようです。

犯人宅間守は持ってきた出刃包丁で、折り紙をして遊んでいた女子児童を次々に刺していきます。

出刃包丁を児童の体に力任せに刺し、引き抜いた際には鮮血が飛び散ったようです。

この時逃げようとして、恐怖のあまり腰が抜けた本郷優希ちゃんの背中を宅間守は3回も執拗に刺したといわれています。

2年西組へ移動する

宅間守はテラスを通って、授業が終わっていない2年西組へ移動、この時トイレ待ちをしていた児童が刺されています。

刺された児童は髪を引っ張られて首を切られたといわれていました。

SNS上では首が落とされたとも噂されていますが、実際は右側の頸部を切られたようです。

教室の後ろから入り、いきなり児童の背中を刺しました。

手当たり次第に、児童に出刃包丁を突き立てる宅間守に対し、担任の女性教師は児童たちに「逃げて」と叫び、自分は廊下へ逃げ出したといわれています。

実際には女性教師は通報するために、事務室へ急いだようですが、児童たちを誘導せず教室を抜け出したことで批判の対象となりました。

このクラスでは、逃げ遅れた児童が2名死亡しており、6名の児童も刺され九死に一生を得ています。

2年東組へ移動する

勢いづいた宅間守は、再びテラスを通って2年東組へ移動、この時10時15分を過ぎたあたりだったと発表されていました。

2年東組に移動した宅間守は2名の児童を刺しましたが、教室にいた男性教師が椅子で犯人宅間守に殴りかかり、撃退しています。

逃げる際も宅間守は2名の児童を刺しましたが、2年東組の児童は皆命を取りとめました。

1年南組へ移動する

2年東組の教師に追われるようにテラスへ出た宅間守は、テラスを走り向け反対側の1年南組へと向かいます。

この時2年東組の教師と1年南組の教師は、宅間守ともみあいになり、1年南組の教師が腹部を刺されました。

2人の教師の追跡を交わし、1年南組へ移動した宅間守は、1名の児童の脇原を刺し死亡させています。

1年南組ではこのほか3名が刺されましたが何とか助かりました。

10時20分に取り押さえられた

宅間守は駆けつけた2年南組の担任教師と副校長によって、10時20分ごろに取り押さえられたといわれています。

そして警察への通報へ走った2年西組の女性教師は、10時18分に110番通報をしましたが、運悪く新人警官が対応に当たった為、なんと8分間も事件について質問されたのです!

結果、警察や救急車の到着が遅れたのはいうまでもありません。

下記動画では当時1年の担任をしていた小林弘典さんが、事件について語っています。

事件発生当時逃げ出した教師がいた?岩崎真季という女性教師?

池田小学校事件を検索すると「池田小学校事件トイレ」と共に「逃げた教師」が出てきます。

事件時に2年西組の担任をしていた当時20代後半だった岩崎真季さんです。

大阪教育大学出身の教師で評判もいい教師だったといいます。

しかし事件当日、宅間守が教室へ入り込み後ろの児童の背中を刺すと、児童を置き去りにし教室を逃げ出したと大きな批判をされました。

岩崎真季さんは児童が刺されたのを見ると、児童たちに「逃げて」と言い残し、教室を後にしました。

彼女は警察に通報しに行ったといわれていますが、目の前で出刃包丁をもった犯人が暴れている状態で、児童を逃がす方が先だったのではないでしょうか。

岩崎真季さんが教室を逃げ出した後、教室では残された児童たちがパニックに陥り出口に殺到、結果一番後ろにいた児童が犠牲になっています。

最初に刺された児童と共に2人が死亡、6人が怪我をしました。

さらに彼女は通報に走る途中、他のクラスに危険を知らせることなく、すでに刺されて廊下で苦しんでいた児童を見たにも関わらず放置しています。

自身もパニックしていたとはいえ、その行動はおかしいのではないかと批判が集中してしまったのです。

しかし、一方で冷静な判断は出来なかったであろう彼女を擁護する声もあがっていました。

逃げた教師のその後がヤバい?精神病に悩まされ自殺との噂も!?

逃げた教師と批判された岩崎真季さんは、事務室に入り警察に通報しますが、運悪く新米警察官の対応にあい、事件とは関係のない年齢まで聞かれた挙句、8分間も事情を聴かれました。

一方近くのスーパーに逃げ込んだ児童が通報し、そちらの方が要請が早かったといわれています。

その為、岩崎真季さんはすぐに通報せず逃げまどっていたともいわれました。

遺族はこの通報内容を開示するように求めましたが、警察はこれを拒否、不信感が募り対応した警察官にも批判が集まっています。

逃げた教師として、保護者からも大きな批判を受けた岩崎真季さん。

彼女は、学校を退職しその後は公表されていません。

噂では、精神的に壊れてしまい自殺をしたといわれています。

しかしあくまでも噂であり、彼女を批判する声が自殺という結末を作り出したのかもしれません。

生存していれば現在50歳を超えている岩崎真季さん、何を思い何を感じて生きているのでしょう。

取り押さえられた犯人・宅間守の衝撃の一言とは!?

池田小学校に侵入してからおよそ10分から15分後、宅間守は副校長と2組南組の担任教師に取り押さえられました。

この時、2組南組の担任教師は顔を切りつけられています。

2人に取り押さえられた宅間守は警察が到着するまでの15分間、無言で平然としていたようです。

警察が駆けつけ逮捕された際には「あーしんど」とつぶやいたといわれています。

たった7歳でこの世を去った児童たち!最後の68歩に秘められた想いとは?

この事件では、生きるために必死に逃げる児童の姿が涙を誘いました。

宅間守が最初に襲った2年南組、折り紙で遊んでいた本郷優希ちゃんは背中を3カ所深く刺されながらも、必死に立ち上がり廊下を進んでいます。

この時本郷優希ちゃんは68歩すすんだといわれており、生きるために頑張った68歩と呼ばれました。

後に本郷優希ちゃんの母は「虹とひまわりの娘」で苦しい胸の内を明かしています。

59m歩いた酒井麻希ちゃん

最期の68歩を歩いた本郷優希ちゃん同様に、必死で生きようとした児童がいました。

教室内で宅間守に刺された酒井麻希ちゃんは、生きるために必死に玄関へ向かっています。

彼女が歩いた後には、よろけながらも必死に頑張った血痕の後が残こっていたようです。

その距離は59m、彼女は玄関付近で力尽きています。

酒井麻希ちゃんの両親は現在も、警察の研修など各地でつらい事件を語り続け、子供を守る大切さを訴え続けているようです。

宅間守がヤバすぎる?異例の死刑執行や裁判での暴言が人間と思えない?!

池田小学校事件で日本中からバッシングを集めた宅間守。

人間とは思えない行動、発言が逮捕後も世間の怒りを集めました

あまりにも自分勝手でクズ過ぎる、という声が絶えることなく死刑が執行されるまで憎まれ続けた犯人とも言えます。

彼はなぜ池田小学校事件を起こしてしまったのでしょうか。

実行犯・宅間守とは?結婚歴が5回で最後は獄中結婚していた?

【宅間守プロフィール】

誕生日:1963年11月23日
出身地:兵庫県伊丹市
死刑 :2004年9月14日
死因 :絞首刑

犯人宅間守は子供のころから動物の虐待を繰り返し、毛布に巻いた猫を川に流したこともあったようです。

短期で友達や母親に暴力をふるっていたともいわれています。

さらに、池田小学校事件に通じるものですが、子供の頃は自分より弱いものをいじめていたといいます。

自衛隊を除隊

宅間守は暴力沙汰で高校を中退、その後入った工業高校、定時制高校共に退学となっていました。

さらに航空自衛隊に入り、愛知県では航空機の整備を担当しましたが、少女への強姦未遂が原因で除隊となっています。

その後は何度も職を変えていますが、暴力がエスカレートしていき仕事も長くは続いていません。

精神科の病院から飛び降り

1984年にはまた強姦事件を起こしていますが、当初部屋へ上がりこんだだけとして、母親と共に精神科の病院へ入院しました。

しかし、この入院は罪を隠すための隠ぺいだったようで、後に強姦事件が明るみになり服役しています。

さらにこの精神病院では5階の高さから飛び降りたのです。

後に彼は、この飛び降りは両親への嫌がらせだったとコメント。

母親の精神が崩壊

宅間守は服役に父親から勘当されています。

しかし宅間守は就く職すべてで問題を繰り返し、15回もの逮捕歴があったことになるのです。

また、暴力的な態度によって結婚と離婚を4度も繰り返し、事件後は死刑宣告を受けていたにも関わらず獄中で結婚をしています。

一方、母親は次第に精神を病んでいき、池田小学校事件の後は精神病院に入り2016年にこの世を去りました。

宅間守の部屋がグロいといわれ、公開された彼の部屋は悪魔の部屋と名付けられています。

父親の暴力と母親の育児放棄

宅間守は暴力的な性格ですが、それは父親の影響を色濃く受けたのではないでしょうか。

父親は厳格で家族に暴力をふるう一面があったようです。

宅間守が数々の問題を引き起こすようになってくると、石で頭を殴りつけたこともあったといわれ、本気で刺し殺そうとしたこともあると語っています。

獄中の宅間守は、息子の罪に責任を感じて自殺してほしい、といった内容を父親に向けています。

そんな父親は世間からのバッシングを受けながらも生き続け、2019年88歳でこの世を去りました。

一方母親は、妊娠時に子供をおろしたいといっていたほど。

育児を放棄、お前など生まれてこなければよかったという言葉を宅間守に伝えています。

宅間守は両親が生み出した狂人だったのかもしれません。

兄が自殺していた

宅間守の兄については、多く語られていません。

しかし1999年に首つり自殺をしていました。

自殺の原因は、弟宅間守の存在で周囲からの批判があった、事業の失敗があったなど様々な憶測が飛んでいます。

殺人事件を起こした理由がヤバすぎる?あまりにも身勝手なその内容とは?

宅間守が池田小学校を襲った理由があまりにも自分勝手で、日本中が怒りを隠しきれませんでした。

彼は300万以上の借金をかかえ、3人目の妻とはまたしても離婚、自分の人生がうまく進まないことを元妻のせいにします。

元妻を殺そうと計画しますが、勤務先が変わっており所在が分からなかったので断念。

さらに自分が大量に殺人を犯すことで、元妻も後悔するし、他の人も巻き込んで苦しませることが出来るという思考に行きついたのです。

池田小学校をターゲットにしたのは、幼い時にエリート校に憧れており、小学校なら殺害が容易だと思ったから。

宅間守の車の中には、元妻を殺害しようとたくらんだ文化包丁も残されていたのだとか。

後に彼は、幼稚園ならもっと簡単だったというセリフを残しました。

異例の早期死刑執行!裁判で発した言葉が酷すぎてヤバい?!

宅間守は逮捕されると精神障害や薬のせいで罪を犯したと、自分の罪から逃げる為に虚偽の言動をしていますが、精神障害もなく薬の影響もないと判断されました。

彼の弁護団は裁判までの宅間守とのやり取りを、とても遺族には聞かせられない発言ばかりだとして公表はしていません。

さらに公判中に幼稚園ならより多く殺すことが出来た、1人殺して死刑になるより8人殺して死刑の方がましだなど、暴言を繰り返していたといいます。

傍聴席に集まった人々からは「さっさと死ね」などと宅間守への怒号が飛び交っていたようです。

この時大阪地裁で裁判長を務めていた川合昌幸裁判長は「極刑以外にない」という発言をしています。

さらに、当時の総理大臣、小泉純一郎さんも死刑は当然というコメントを出しました。

通常死刑宣告から死刑までは7年から8年はかかるといわれています。

しかし宅間守は2003年8月に死刑宣告を受け、2004年9月には大阪拘置所で死刑。

控訴を取り下げてると、死刑は早くなるといわれていますが、その中でも宅間守の死刑はかつてない速さだったようで、暴言が止まらぬ彼に対しての処置だったのではないかと噂されています。

池田小学校事件は学校のセキュリティを格段に上げた

池田小学校事件を検索するとトイレが明暗を分けたともいわれています。

凶器を持った犯罪者を簡単に校内へ入れたこと、そして逃げた教師など様々な問題点が指摘されました。

学校や警察が公表した事実がおかしいという意見も多数あがっています。

遺族は未だ悲しみと怒りを背負っていますが、それぞれの思いを胸に学校の安全を訴え続けています。

現在小学校は高い塀で覆われ、門は閉め、警備員を配置、父兄も証明書がないと学校の敷地には入ることが出来ません。

大人がしっかりと守るべき子供達、今後はこのような理不尽な事件が二度と起きないよう池田小学校事件を風化させてはいけないと感じます。