1990年女子高生校門圧死事件という悲惨な事件が発生しました。
笑顔で元気よく登校して行った愛するわが子と、数時間後変わり果てた姿で対面することになるなど想像できるでしょうか。
ーこの記事でわかることー
- 女子高生校門圧死事件の真相
- 事件に対する学校の対応
- 加害者・細井敏彦の現在について
ここでは、ヤバすぎる「女子高生校門圧死事件」について上記を中心に見ていきましょう。
また、事件を引き起こした張本人、細井俊彦教諭の衝撃の現在について徹底調査していきます。
女子高生校門圧死事件とは?ブラック校則が招いた悲劇!?
1990年7月6日、兵庫県立神戸高塚高等学校で女子生徒が校門に挟まれ亡くなるという、大変悲しく痛ましい事件が起こりました。
後に名付けられた「校門圧死事件」です。
なぜ、このような事件が起こり、女子生徒は亡くならなければならなかったのか?
この原因は、学校側のブラックな校則にあったと言われています。
詳細について、真相を探っていきましょう。
女子高生校門圧死事件の概要
1990年7月6日午前8時過ぎ、細井俊彦(当時39歳)含む3名の教諭が校門付近で遅刻指導を行っていました。
その内の一人は、時計を見ながら「5秒前、4、3、、」と生徒に対してハンドマイクで叫んでいます。
午前8時30分のチャイムが聞こえると、細井は高さ1.5m、重さ230㎏の鉄製のスライド式門扉を閉め始めました。
門から入ってくる生徒がいないか目視し確認しながら閉めるのではなく、頭部を下へ向けて勢いをつけて閉めたのです。
そこへ駆け込んだ一人の女子生徒が門扉とコンクリートの壁に挟まれましたが、細井はそのまま力いっぱい門扉を閉め切ろうとしました。
周りにいた生徒たちが門扉を押し戻そうとしたり、悲鳴が上がったことで、細井は初めて事態を認識したそうです。
女子生徒は、すぐさま神戸大学医学部付属病院に搬送されましたが、午前10時25分に死亡が確認されました。
死因は、門扉とコンクリートの壁に頭を挟まれたことによる、頭蓋骨粉砕骨折、脳挫滅でした。
女子高生校門圧死事件は事故ではなく殺人事件?
「校門圧死事件」の加害者、細井敏彦教諭は業務上過失致死の容疑で兵庫県警察に取り調べられました。
この事件の被害者は、当時15歳だった高校1年生の石田遼子さん。
遼子さんはヘルメットを被っていたにも拘わらず、耳と口から血を流し倒れ、頭蓋骨粉砕骨折等の重傷で脳挫滅により亡くなりました。
細井敏彦は門扉をヘルメットが割れるほどの速さで押していたのです。
このことが、兵庫県警の実況見分で明らかにされ、業務上過失致死罪で細井は神戸地方検察庁に送検されました。
なぜ、ヘルメットが割れるほど力を込めて門扉を閉める必要があったのか、ご遺族にとっては悪意のこもった殺人としか思えないでしょう。
女子高生校門圧死事件の被害者の校門に残った血とは?
石田遼子さんが搬送された後、学校側は遼子さんの血液を洗い流したといいます。
警察による現場検証が行われる前の出来事でした。
学校側は、証拠隠滅を図ろうとしたのでしょうか。
女子高生校門圧死事件が起きた神戸高塚高校とは?
事件が起きた神戸高塚高校は、当時生徒が1500人以上というマンモス校でした。
この大人数を束ねるためか、校則はとても厳しいブラック校則だったようです。
朝のチャイムが鳴ると、校門を閉じることが校長の許可で行われており、遅れてきた生徒を学校に入らせないようにする、遅刻に厳しい校則がありました。
遅刻した生徒は、スクワット等の筋トレや校庭を2周走らせられる等の重いペナルティがあったそうです。
事件発生の前年度、同校の校長は兵庫県高等学校生徒指導協議会神戸支部長、また生徒指導部長は同協議会常任委員を務めていました。
そのため、管理教育や生徒指導を推進しており、「全教師による校門や通学路での指導」は協議会で高く評価されていたのです。
なお、当時は日本で5校しか採用されていない学校安全に関する「研究指定校」でした。
細井敏彦教諭は事件以前にも問題を起こしていた?
細井敏彦は以前にも、遅刻指導を行っていた際に、門扉でスカートや鞄を挟んだことがありました。
門扉を閉めることの危険性を把握していなかったのでしょうか。
この事件で、安全を十分に確認していなかったことが明らかになったのです。
女子高生校門圧死事件に対する学校側の反応とは?
石田遼子さんが門扉に挟まれ亡くなられたことに対して、学校側の反応はどのようなものだったのでしょうか?
遼子さんのご遺族にどのように対応し、全校生徒にまたその保護者にどのように説明し、責任を果たしたのか、詳しく調査してみました。
予定通り期末試験を実施
事件当日は期末試験が予定されていました。
遼子さんが、門扉とコンクリートの壁に挟まれ搬送されましたが、予定通り学校では期末試験が実施されていたのです。
なんとその後、細井は試験監督をしていたそうです。
遼子さんの容態を心配した他の生徒に対して「重傷だが、命に別状はない」と答えたとか。
この時、細井は何を思い考えていたのでしょうか。
学校側には問題がないと主張
このような態度は、ご遺族にとっては到底納得できるものではありませんし、子供を預ける他の保護者にとっても理解しがたく許せる行動ではありません。
そして、学校側は1990年7月20日に、全保護者に対し事件についての説明会を開きましたが、マスコミが会議の内容を録音することを恐れて大音量の音楽を流したそうです。
また「保護者会がマスコミの方に流れまして生徒がひどく困っております」とマスコミ批判をしました。
学校側は生徒を盾に取ってマスコミ批判をし、事件の隠蔽に利用したのです。
校長は辞任、他職員へ処分が下される
教育委員会は事件が起きた7月6日から20日後の26日に、事件を起こした細井敏彦を懲戒免職処分。
管理責任を問われた当時の校長は戒告、教頭と教育長を訓告とし、教育次長2名を厳重注意とする処分を下しました。
しかし、校門を閉めようと言い出した教員や生活指導部長に対しては処分はありませんでした。
校長は辞表を提出し教育委員会はそれを受理、9月に新校長が就任したということです。
一人の尊い命が奪われてしまっているのに、この処分は軽すぎるように感じます。
女子高生校門圧死事件発生から4か月後に過失を認める
事件から4か月後、学校側は安全管理上の過失を認めました。
兵庫県は、ご遺族に対して損害賠償金として6千万円を支払うことで示談が成立しました。
大事な我が子を亡くしたご遺族にとっては、6千万円は高い金額とは到底言えません。
この事件を風化させてはいけないと、市民団体は活動を続けてきましたが現在はメンバーの高齢化のため、残念ながら活動を断念しています。
女子高生校門圧死事件に校門を撤去した?
事件直後学校側は、事件現場の校門の門扉を撤去しようとしました。
しかし、裁判所から裁判前に撤去するのは好ましくないという通達があり、一時は撤去を保留にしましたが、細井の有罪が確定するとすぐに撤去作業を再開。
事件現場となった校門の門扉を、学校側は事件の風化を図るため事件直後に撤去しようとしたのです。
学校側は、ご遺族やPTAに対し一切の説明をしておらず、マスコミに対し開いた記者会見で初めて明らかとなりました。
保護者や住民らは事件の風化を恐れて撤去に反対する運動を起こしています。
しかし、学校側は1993年7月30日に門扉を撤去し、サイズと重量を小さくした校門を再設置したのです。
反対する人々は、この強制的な撤去を不当だとして、税金から賄われた工事費等の返還を求める住民訴訟を起こしました。
しかし1999年7月12日、最高裁は学校側の措置は適当であると判断し訴えは退けられました。
事件から32年が過ぎた2022年07月には、新しく設置されている門の前で市民たちが追悼式を行っています。