1999年9月30日に起きた「東海村jco臨界事故」は、日本史上最悪と言われた事故。
日本で初めて、原子力事故による被爆で死者を出し、作業員2名が死亡し、667人もの人々を被爆させました。
遠くない過去に起きた原子力事故、検索してはいけないと言われている衝撃の理由とは一体何なのでしょう。
世界中で脱原発、原子力に代わるエネルギーをと呼びかけられている今、自国で過去にどのような事故が起き、どれほどの被害に及んだのかきちんと知り得ることが大切なのではないでしょうか。
目次
検索してはいけない「東海村jco臨界事故」とは?
「東海村jco臨界事故」を検索してはいけないと言われる理由は、一体何なのでしょう。
実際、検索してみると、この事故で被曝された方々の画像が複数出てきます。
それは、とても悲惨で目を覆いたくなるものばかりで、本当に同じ人間がこのような姿になってしまうのか、加工された写真ではないのかと疑ってしまうほどです。
それらの画像を閲覧することにより、パニックを起こす方もいらしゃるかもしれませんので、そういった意味で「検索してはいけない」と注意喚起をしておきます。
放射能は色も形も目に見えず無味無臭、被爆した箇所も最初は変わりなく、気付くことが出来ません。
しかし、皮膚は徐々に壊死し、皮下組織の細胞も血液も内臓も、時間をかけてゆっくりと確実に破壊されていき、助かるすべも、救う手立てもありません。
確実に、死に向かって、苦しみながら朽ちていくのです。
この事故は、放射能が人間にとってどれだけ被害を与えるのか、人間をどのように変えていくのか、放射能の恐ろしさを身近に教えてくれたのかもしれません。
東海村jco事件の概要は?
「東海村jco事件」は、1999年9月30日に茨城県那珂郡東海村にある住友金属鉱山の子会社、核燃料加工施設「JCO」が起こした原子力事故(臨界事故)です。
その日の午前10時35分、JCOの核燃料加工施設内で核燃料を加工中、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が起きました。
その後、大量の放射線や熱が発生し続ける状態が20時間以上も続いたのです。
至近距離で放射能を浴びた作業員3名中2名が死亡し、1名が重症、さらに事故の収束に当たった従業員や救急隊員、施設の近隣住民等、667名の被爆者を出す、日本史上最悪の臨界事故でした。
東海村jco事件の生存者はいる?
事故発生時、作業に当たっていた3名(大内久さん、篠原理人さん、横川豊さん)が、大量の放射線を浴びた被爆者となりました。
大内さん(当時35歳)は、バケツで硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に流し込むための漏斗を支えていたと言われています。
大内さんは、放射線量16~20シーベルト以上を浴びたと発表されましたが、私たちが生活をしていて自然に浴びている放射線量は、年間2.4ミリシーベルトです。
人間が一度に7シーベルト以上の放射線を浴びた場合の死亡率は100%とされており、大内さんは通常生活の年間被爆量の8000倍以上を一度に浴びたことになります。
大内さんは、中性子線によって体内の染色体を破壊され、新しい皮膚も細胞も生成されず、事故から83日後に亡くなられました。
また、同じ作業員の篠原さん(当時39歳)は、バケツで硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に流し込む作業をしていました。
被爆量は、推定6~10シーベルトとされており、大内さんよりは少ないですが、致死量の放射線を浴びています。
そのため、感染症から肺炎、そして多臓器不全を起こし、臨界事故から211日後に亡くなられました。
横川さん(当時54歳)は、事故当時隣の部屋にいたため、浴びた放射線量は3シーベルト程度と推定されています。
一時的に白血球がゼロになりましたが治療の成果が出て回復し、事故から約3か月後に退院した、唯一の生存者です。
検索してはいけない「東海村jcoの臨界事故」の原因とは?
なぜ「東海村jcoの臨界事故」は発生したのでしょう。
当時東海村JCOは核燃料の製造を行っていましたが、当然のことながら被爆国日本で核の恐ろしさを知らない人はいないはずです。
厳重な警戒の元作業を行っていたはずですが、事故の原因やJCOの管理体制はどうなっていたのか気になるところです。
まずは事故の原因を徹底調査していきましょう。
原因①裏マニュアル
JCOには臨界(=原子核分裂の連鎖反応が一定の割合で継続して起こる)を防ぐための国の管理規定に沿った正規のマニュアルがありました。
しかし、実際の作業が行われていたのは、作業効率・作業時間短縮を重視した裏マニュアルです。
しかも、臨界事故発生時は裏マニュアルすら守られず、臨界に達しやすい形の容器(沈殿槽)に硝酸ウラニル溶液を流し込んだそうで、この作業は事故当日に、被爆者3人が考え出し初めて行ったといわれています。
普通に考えて、ウランを手作業でステンレスバケツで注ぐなんて、危険極まりないことであり、考えられませんが、実際にこのやり方で行われていたのです。
しかも、作業をしていた大内久さんと篠原理人さんはその危険性・臨界が起こるリスクを全く理解していなかったといいます。
放射性物質のリスクを把握していない作業員を業務に携わせるなんて、ありえないことであり、JCOの管理体制があまりにもずさんであったと言えるでしょう。
原因②3人の被爆者の作業方法
JCOは燃料加工の工程で、原料であるウラン化合物の粉末を溶解させるために、正規マニュアルならば「溶解塔」という装置を用いなければならないところを、裏マニュアルではステンレス製のバケツで溶解させるという手順でした。
事故当日は、この裏マニュアルをさらに改悪した手順で作業が進められてしまったのです。
具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らぬよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使わなければならないところを、作業の効率化のために、背丈が低く内径の広い冷却水のジャケットに包まれた沈殿槽を使って、作業工程が進められていました。
原因③jcoの管理不足
この臨界事故で、業務上過失致死などの罪に問われた当時の事業所長越島建三被告ら6人と、法人JCO(稲見智之社長)に対する判決公判が、水戸地裁で行われました。
鈴木秀行裁判長は、長年に渡るずさんなJCOの安全管理責任を批判し、越島被告に禁固3年、執行猶予5年、罰金50万円(求刑禁固4年、罰金50万円)の判決を言い渡しました。
JCOは原子炉等規制法違反および労働安全衛生法違反の罪で罰金刑となり、また、被害者への賠償額は約154億円になっています。
このことから、JCOの国の許可から逸脱した違法作業や、臨界事故を想定しないままの安全軽視の操業実態が次々と明らかになったのです。
同裁判長は、「事故により2人が死亡したばかりか、社会に与えた衝撃はきわめて大きく、原子力の安全性に対する国民の信頼が大きく揺らいだ」と指摘しました。
また、「事故を引き起こした背景には、長年にわたるずさんな安全管理体制があった」と述べ、臨界事故の「教育訓練はほとんど実施されておらずきわめて悪質」、「安全軽視の姿勢は厳しく責められなければならない」と批判。
公判で被告側は、国の監督が不十分だったなどとして情状酌量を要求、判決は被告らの刑事責任を重大だとしながら、同社の歴代の幹部にも責任の一端があり、被告らだけが事故に寄与したとはいえないとして執行猶予を付けました。
※以下の画像はかなり刺激が強いのでご理解いただいたうえで進んでいただけますと幸いです。
【閲覧注意】大内さんの被曝写真は本物?
大内さんは、事故直後の時点では生存者として健康な姿を見せていました。
当初は意識もあり、臨界が起こった際「青い光を見た」と言っています。
日焼けのように赤くなった皮膚と腫れた手以外は、全く異変が見当たらなかったため、当初は生存者として扱われました。
上記は、事故後の当日の写真ですが、ここから徐々に染色体が破壊され、大内さんの体は、白血球の数が急激に減少しウィルスや細菌に感染しやすくなってしまったのです。
やがて皮膚の再生ができなくなり、ボロボロと剥がれ落ちていきました。
それだけではなく肺に水がたまり呼吸が困難になっていったり、腸内の粘膜が白く変色して垂れ下がり、大量の下痢も始まります。
一日に3リットルもの下痢で、大内氏はどんどん衰弱していき、腸内で出血の症状がみられるようになりました。
粘液が、はがれたところから染み出した血液があふれていたのです。
出血の症状への対策のため、輸血が一日に10回以上も行われる日もあったようです。
しまいには、皮膚の失われたところから血液や体の水分がしみ出していき、その症状のためにガーゼで体のほとんどを覆わなければならなくなりました。
治療が始まって59日目、午前七時頃に突然大内さんの心臓が停止。
医師が蘇生処置を行うと、いったん動き始めたものの再び停止、動いては止まり、が三度繰り返され、何度も心臓マッサージと強心剤の投与が行われます。
心臓が止まったならもうこのまま楽にしてあげたい、と家族なら思うでしょう。
しかし、大内さんは家族の呼びかけにも答えることができず、機械と薬によって生かされていたのです。
大内さんは、国内初の臨界事故により大量の放射線を浴びた人体として、モルモットのように実験・観察対象として扱われたと大きな批判が集まりました。
これが、被爆した大内さんの、事故から83日後に亡くなるまでの本当の姿です。
大内さんの被曝写真は本物?偽物?
大内さんが、事故後どのように変化していくのか残された写真で確認することが出来ます。
大内さんは、中性子線を浴びたことにより、染色体が破壊され、細胞が生成されない体になってしまいました。
それにより、放射能によって焼けただれた皮膚は剥がれ落ち、新しい皮膚が作られないため皮下組織の体液や血液が漏れ出てしまうのです。
この画像は、摩擦を減らし、少しでも皮膚が剥がれ落ちないようにするために、手足を吊るされているのです。
人間がこのような姿になるなんてと信じがたいかもしれませんが、作られた写真でも偽物でもないようです。
当時は治療の様子を記録していたようで、大内さんは至近距離で大量の放射線を浴びたことにより、83日間苦しんで亡くなっていきました。
大内さんの「俺はモルモットじゃない」発言
事故後、被爆者たちは、千葉市の放射線医学総合研究所へ搬送されました。
中心となって治療を行ったのは、当時東京大学医学部の教授であった前川和彦医師でした。
「一日一日、驚きの変化でした。
血液の液体成分が血管の外に出て失われ、体がむくむ。
肺に水がたまり、酸素の取り込みが悪くなって、4日目ごろ、昼夜逆転の不穏状態に。
採血され、胃の検査をされ、『モルモットみたいね』という発言が大内さんから出てきました。
でも、話をしたのは最初の3~4日くらい。
その後は人工呼吸管理が必要となり、持続的に鎮静薬を投与し、意識をなくしました」
大内さん、篠原さんの治療について、前川医師は「海図のない船出」だったと語っています。
誰もが見たことがない身体の変化に、連日向き合っていたのです。
当時の心境について、
被ばく医療の限界を目の当たりにすることとなりました。
いまは、無力感に苛まれ、かなわぬ戦に挑んだドン・キホーテのような気もしています。
何とか助けたいと願い、手を尽くしても尽くしても日々悪化していく大内さんの姿に自身の無力さを感じたことでしょう。
最後は本当に筆舌に尽くしがたい様子であったと、前川医師は悔しさと無念さを述べました。
大内さん、篠原さんは、被爆後のデータを取るため医学の発展のために、生かされていた状態だったと言われていますが、前川医師ら現場の医師・看護師たちは、お2人の回復を祈って、治療に当たっていたことが語られた言葉から感じ取れます。
東海村jco臨界事故が理由でポケモンが放送禁止になった説?
ポケットモンスターは、1996年2月27日にゲームボーイ用ソフト「ポケットモンスター 赤・緑」が発売されたことが原点です。
これが小学生を中心に、口コミから火が付き大ヒット!その後、アニメ化、1997年4月1日テレビ東京からテレビ放送されました。
しかし、東海村jco臨界事故が起こった当日、ポケットモンスターの放送日でしたが、放送が中止となりました。
放送禁止となった理由は何でしょうか?探ってみましょう。
東海村jco臨界事故当日にポケモン放送禁止?
当日の放送回が、「ポケットモンスター 赤・緑」のゲームに沿って行くと「カントー地方」の「むじんはつでんしょ」での話ではないか、もしくは臨界事故を連想させるような話ではないかと言われています。
「むじんはつでんしょ」は、まさに東海発電所(茨城県那珂郡東海村)が舞台となっています。
そのため、放送が禁止となったのでしょう。
その日の夜『ポケットモンスター』が放送する予定だったが、映像表現の関係で休止しとありましたが、 何の話を放送する予定だったのですか?
ベストアンサー
ゲームでの流れからすると、サンダーが出てくる無人発電所の話か、モンスターボールが放射能変異でビリリダマになった話だと思われます。
引用:yahoo!知恵袋
以前にもポケモンは活動を休止したことがある?
1997年12月16日に放送された第38話「でんのうせんしポリゴン」で、ストロボフラッシングなどの激しい点滅を断続的に見たことにより、視聴者が光過敏性発作を起こした事件があります。
この回ではコンピュータの世界を表現するため、ワクチンソフトによる攻撃シーンや、破損したデータを修復するシーンにチカチカとストロボやフラッシングなどの激しい点滅が多用されていました。
後にテレビ東京が配布した報告書「アニメ『ポケットモンスター』問題に関する記録」によると、25箇所にわたって1秒間以上連続して点滅を使用しており、特に番組後半はこれらが連続して使用されていました。
特に顕著だったのが、ピカチュウの技「10まんボルト」がワクチンソフトのミサイルに当たる場面でした。
「アニメ『ポケットモンスター』問題に関する記録」では、各局の同時ネットにより、345万人の視聴者(4 – 12歳)が見ていたと推定しています。
この回の放送直後、視聴者の一部が体調不良を訴え病院に搬送されました。
病院に搬送された患者の多くは児童だったようで、この事件の影響で、ポケモンの放送は4カ月の間休止されたのです。
大内久の家族とは?
大内久さんには、当時、奥さんと小学三年生になる息子さんがいました。
息子さんの小学校入学にあわせて家を新築し、家族三人で暮らしていたようです。
一日一箱のたばこを吸い、仕事の後は焼酎の水割りを二杯ほど飲んで寝るのが日課だったといいます。
平穏で安定した幸せを、臨界事故が一変させてしまうことになったのです。