雫石衝突事故で人の雨?!遺体写真や乗客の断末魔がヤバすぎる最悪の飛行機事故の真相!

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国内での大きな航空機事故というと1985年の日航機墜落事故が有名ですが、時代を遡ると更に悲惨な事故がありました。

かつて史上最悪の航空機事故と言われた「雫石事故」。

市川良美二等空曹の乗った自衛隊機が、全日空機に追突し162名の死者を出した航空機事故で、機長の断末魔が残っていたことでも有名です。

上空から人の雨が降ってきたといわれており、遺体の損傷はあまりにひどく目を当られない状態だったのだとか。

現在事故現場は心霊スポットとして拡散されているようです。

当時の写真を振り返りながら、風化させてはいけない雫石事故をたどっていきましょう。

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雫石衝突事故で人の雨が降った?全日空機雫石衝突事故がヤバい?!

2024年1月2日、羽田空港で日本航空516便が、海上保安庁の航空機に衝突した事件が記憶に新しいのではないでしょうか。

航空機の事故は大きな被害を生み出しますが、かつて国内で人が空から降ってくるという凄惨な雫石事故がありました。

昼過ぎの良く晴れた日に起こった衝突事故で、多くの人が白煙を見たり衝突の爆音を聞いたりして写真を残しています。

まずは、岩手県雫石上空で起こった事故の詳細を見ていきましょう!

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全日空機と自衛隊機が衝突?!全日空機雫石衝突事故の概要

雫石事故は、1971年7月30日の午後2時頃に発生。

この時、白煙を上げながら猛スピードで落下する全日空58便の一部が目撃されています。

全日空58便 F-86F戦闘機
離陸 午後1時33分(遅延) 午後1時28分
衝突3分前 高度28,000フィート 高度約25,500フィート(上下あり)
約7秒前 F-86F戦闘機を視認 教官を追って左旋回
約2秒前 F-86F戦闘機が前方に移動、操縦桿を握る 教官より全日空機との接触を回避するよう指示
衝突 回避操作

全日空58便はフライトレコーダーを装備していなかったので、正確な時間などは、近くを飛んでいた飛行機が傍受したものが参考になっています。

一般的には、自衛隊の教官(31歳)が訓練可能な空域を逸脱したことが原因とされているようです。

当時訓練生だった市川良美二等空曹(22歳)は教官の後を追う形で、全日空58便に接近してしまい、回避指示が出た時には間に合わなかったといいます。

市川良美二等空曹は必死の回避行動の結果、全日空58便の前に出てしまい、右右翼の付け根に衝突されました。

全日空58便は、T字尾翼と水平尾翼を破損し墜落していったのです。

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衝突の衝撃で空中分解!乗客乗員は機内から空へ!?

雫石事故の衝撃音は20キロ程離れた街にも響き渡る程だったようです。

衝突した全日空58便は水平安定板を失った上に、操縦不可能となり機長(41歳)はエマージェンシーを繰り返しています。

衝突の衝撃から立ち直ることが出来ない全日空58便、急降下を続け、なんとその落下スピードは音速を超えました。

地上から約4600メートル付近で空中分解を起こし、乗客たちはまるで人の雨のように降り注ぎ、高速で地面に叩きつけられたことになります。

事故当時、空から黒いものが次々降ってきたという証言もあり、おそらくこれが乗客たちだったのでしょう。

遺体は地上深くに突き刺さっていた?遺体写真がヤバい!?

雫石事件では当初、水田に自衛隊機が墜落しており、パラシュートで脱出した市川良美二等空曹の姿が目撃されたことから、自衛隊機の単独事故だと思った住民もいたようです。

しかし、しばらくして全日空58便との衝突事故だとわかり、雫石町の岩名目沢では複数の遺体が発見されました。

2017年に閉校した安庭小学校にも複数の遺体が落ちてきて、雫石町内のあちらこちらに全日空58便の砕け散った機体や、無残な姿の遺体が人の雨のように降り注ぎました

当時の様子を知る人によると、音速を超えるスピードで外へ投げ出された人々は服をはぎ取られ、彼らのほとんどが裸だったようです。

当時、夕暮れ時に遺体の回収に当たったのは地元の消防団や警察だったようで、腰まで地面に突き刺さっている遺体や頭が地面の下に刺さっているものなど、落下スピードの速さを物語る遺体が散乱していたといいます。

そのあまりにもむごい姿に、周囲が明るい状況ですべてが見えていたら、手を伸ばすことが出来なかったと証言する人もいたほど。

2017年に閉校となっている雫石町の安庭小学校の校庭をはじめ、雫石町の西安庭地区には、乗客の凄惨な遺体が降り注いだのです。

当時の事故写真は、メディアでも取り上げられ日本国内はおろか世界中に激震が走りました。

現在でも1985年の日航機墜落事故と共に、多くの写真がネット上に掲載されており、その事故のむごさを伝えています。

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全日空機雫石衝突事故での生存者のその後がヤバい?

雫石事故では全日空58便に乗っていた乗員7名と155人の乗客達は人の雨となって落下、全員が死亡しています。

しかし、F-86F戦闘機に乗っていた市川良美二等空曹はパラシュートで脱出し生き伸びたのです。

市川良美二等空曹は、運よく載っていた機体の天井が剥がれ脱出がで来たようで田んぼに着陸し、命を救われました。

この事故を見届けた教官はエマージェンシーを発信した後、事故の詳細を伝えるために旋回飛行を続け、約1時間後に帰投命令が出ています。

自衛隊機の過失という報道が流れると、当然のことながら国民の怒りの矛先は市川良美二等空曹たちに向けられました。

この時訓練を指導していた自衛隊の教官は失職、2005年の8月に死亡しています。

また当時衝突したF-86F戦闘機に乗っていた市川良美二等空曹は、事故後、救難機に乗り換え人々の命を救うという選択をしています。

彼は2003年の10月に定年退職をむかえているとのことでした。

全日空機雫石衝突事故の原因とは?パイロットの断末魔が語る恐怖とは?!

雫石事故の原因は、当初訓練中だった自衛官2名に押し付けられていました。

しかし、事件の裏側を見ていくと隠された黒い影が存在していたようにも思われます。

実は雫石事故は起こるべくして起きたともいわれており、自衛隊は事故前に何度も空中衝突が起きると、防衛庁長官に訴えていたのです。

しかし防衛庁は耳を貸さず、結果事故が起きたことになります。

全日空機雫石衝突事故の本当の原因はどこにあるのか、そして残されたパイロットの悲痛すぎる断末魔が語る真実を紐解いていきましょう。

全日空機雫石衝突事故の原因は何?自衛隊のずさんな訓練計画にあった?!

一般的に知られている事故原因は、自衛隊がずさんな訓練計画をしていたというもの。

自衛隊では当時上官には絶対服従というのが定着しており、衝突時には教官が訓練生の市川良美二等空曹の編隊訓練中だったようです。

この訓練は教官の飛び方に合わせて左右上下に高度を変えて飛ぶもので、ミスを繰り返すと追試、さらにはパイロットをくびになる判定が出る事もあります。

当時、この厳しい訓練で2度ほどミスをしていた市川良美二等空曹は、後がないことを自覚していたのでしょう。

必死で教官の後を追っている状況でした。

とはいえ、自衛隊には訓練空域というものがあります。

もしも、この空域を出た時にはレーダーで感知され、警告が発せられるようです。

しかし、事故当時はこのレーダーを使用しておらず、訓練空域を出てしまったにもかかわらず警告されることはなかったと言われています。

そして、この空域を飛ぶように許可を出したのは、飛行班です。

当初F-86F戦闘機が飛ぶはずだった空域は、すでに他の第4航空団が使用していたため、急遽「盛岡」を飛ぶように指示を出します。

この指示は数人の上官や教官を通して伝達され、正確な位置が確認されないまま、事故を起こした教官に伝えられたのです。

防衛庁への訴えがあった

さらに探ってみると、当時は訓練空域に達するまで、自衛隊機は細い航空路を横断せざるおえない状況で、何度も衝突を招くような異常接近があったようなのです。

このことを自衛隊は防衛庁に訴え改正を求めていたのですが、防衛庁は動かず、事故が起きてしまったということでした。

事故後には増原惠吉防衛庁長官が辞任、さらに上田泰弘航空幕僚長も辞任しています。

真実を知った人々からは、防衛省と運輸省にも責任があるとして、自衛隊員だけが責任を負わされたことに納得がいかない、という意見が多くあがっていました。

慣れが引き起こしたずさんな行動が、全て結びついて大きな事故になったように感じます。

全日空機にも原因が?自衛隊機に気づいていた?!

自衛隊の責任に目が行きがちな雫石事件ですが、裁判では全日空機にも非があるとされました。

裁判では全日空機側も、遅くとも10秒前に目視しすぐに行動すれば回避できたと判断されたのです。

一説では全日空58便は事故当日3度目のフライトに入っており、53分ほどの遅延となっていたようで、その為、機長たちは自動操縦に切り替えた後に遅めの昼食をとろうとしていたのだとか、結果見張りがおろそかになったようです。

さらには、全日空機側が航空路を逸れた、という意見も多くあがっていました。

衝突場所の目撃情報や、自衛隊に残されていた航路、などその証拠が多く残っていたようです。

多くの目撃談があがっていましたが、事故調査委員会の報告書では、目撃談の衝突地点が8キロ程ずらしてあったのだとか。

また、F-86F戦闘機が回避しようとしたにもかかわらず、後ろから追突されているという点にも疑問を持っているようです。

そして、事故後の航空会社パイロットの証言からは、旅客機が正規のルートからやむを得ず外れることはよくあることだったという事が判明しました。

真相は闇の中ですが、全日空機側が訓練空域に入ったという意見があるのも確かです。

緊急通信に残されたパイロットの断末魔がヤバすぎる?! 

雫石事故では、衝突後に全日空機は操縦不能となってしまいます。

機首の上げ下げに使用する昇降舵と水平安定板が動かず、機首は勢いよく下降していったのでしょう。

衝突事故から約9秒後、全日空58便と自衛隊の教官機からから緊急通信が入ります。

全日空58便の機長は、元陸上自衛隊にいた41歳のパイロットで総飛行時間は8,033時間44分と公表されていました。

彼は緊急通信で「エマージェンシー」を繰り返していますが、この間も飛行機は加速しつつ急降下をしていたのでしょう。

そして、全日空58便の機長の声は断末魔と共に消えていったのです。

断末魔が消えた時、音速を超える落下スピードの中で意識を失ったのか、すでに地面に叩きつけられていたのかは不明ですが、機長や副操縦士たちは、地面に追突し砕けた機首の中で発見されています。

裁判の結果がヤバい?人の雨が降った現場が心霊スポットに?!

雫石事故は事故後33時間というスピードで自衛隊2名が逮捕されました。

乗務上過失死や航空法への違反が彼らにかけられたのですが、この時裁判の費用は個人負担だったようです。

国は裁判費用を負担せず、莫大な費用は航空自衛隊のOB達がカンパをしたといわれていました。

様々な原因が重なったように感じる航空機衝突事故ですが、裁判の結果は興味深いものになっていきます。

また、乗客たちの人の雨が降り注いだとされる周辺は、現在心霊スポットとも呼ばれていました。

自衛隊幹部に下された判決がヤバい?!刑事裁判の結果とは?

盛岡地裁で行われた第一審では、訓練生の市川良美二等空曹にも禁固2年8か月の実刑が言い渡され、全日空には非がないとされました。

しかし、第二審の仙台高裁では、訓練生の市川良美二等空曹は事故当日の飛行ルートを知らされておらず、全日空機を目視できる状況になかったことから無罪となっています。

さらに上告審では、全日空58便がルートを大幅に外れていたと弁護側が主張しましたが、結局は教官である隅一尉のみが禁錮3年執行猶予3年という刑を受けました。

この裁判に多くの人が、国の責任はないのかと疑問を持ったのは言うまでもありません。

国に対して遺族は民事訴訟に!民事裁判の結果とは!?

雫石事故の裁判は刑事裁判だけではなく、民事裁判にも影を落とし、遺族たちは国を相手取り賠償金を請求、国は控訴しませんでした。

しかし、その後全日空や全日空の保険会社も国に対して損害賠償を求め、国は被害者遺族に支払った賠償金は、国が立て替えたものだとして全日空を反訴。

10年にも及ぶ戦いは、全日空、保険会社、そして国のそれぞれに支払いを求める判決となりました。

まるで罪のなすり合いのような裁判に感じます。

人の雨が降った現場「森のしずく公園」が心霊スポットに!?

岩手県岩手郡雫石町西安庭地域は、事故当時大破した航空機や遺体が降り注いだ地域になります。

その光景を一度見た住人たちは、きっと一生忘れられない傷になっているのではないでしょうか。

多くの犠牲者を出した地域には記念碑が立てられ、「森のしずく公園」として現在も多くの人が当時の事故を悼んでいます。

慰霊祭は2003年までで打ち切りになっているようですが、この場所は地元の方によって大切に守られているようです。

一方、この場所を心霊スポットとして紹介する動画も拡散されていました。

確かに大きな事故であり、多くの人が悲惨な死を遂げた場所なので、心霊スポットと呼ばれるのは自然な流れなのかもしれません。

しかし、当時を知る住民や遺族にとっては大切な場所でもあることを忘れないでほしいと感じます。

雫石衝突事故は組織のずさんさが生み出した航空事故

当時のメディアは一斉に市川良美二等空曹や教官をたたきましたが、雫石事故を詳しく紐解いていくと、衝突した自衛隊機だけが加害者というわけではありませんでした。

全日空や自衛隊、そして国のずさんな姿勢が重なり合っての事故と言えるのではないでしょうか。

空中分解という恐ろしい事故の結末に世界中が震え上がった航空機事故も、時代の流れと共に風化しつつあります。

しかし、大惨事はしっかり語り継ぎ、加害者となった人や被害者となった人々の思いを絶やしてはいけないのかもしれません。