【超閲覧注意】西口彰事件とは?犯行内容や動機、犯人の生い立ちを徹底調査!

【超閲覧注意】西口彰事件とは?犯行内容や動機、犯人の生い立ちを徹底調査! その他

「西口彰事件」は、戦後の犯罪史の中で、ひときわ凶悪かつ残忍と言われる衝撃的な事件です。

西口彰の殺人は3度に渡るもので、警察から逃げながらも殺人を犯し続け、逮捕されていなければ、さらに被害が増えていたと言われています。

その逮捕のきっかけとなったのが、10歳の子供だと言うのですから驚きです。

西口彰はどんな理由で、誰を殺し、何がきっかけで逮捕されたのでしょうか。

今回は「西口彰事件」について詳しく解説していきたいと思います。

西口彰事件ってなに?事件の概要を詳しく解説!

1976年、「戦後猟奇犯罪史」という映画が公開されました。

この映画は実際に起きた戦後の猟奇殺人を再現したもので、3つの事件のオムニバス映画です。

そのひとつが「西口彰事件」で、映画が公開されるとたちまちこの事件は有名になりました。

ここからは「西口彰事件」がどんな事件だったのか、詳しくご紹介していきます。

西口彰事件とは?

西口彰事件1963年から1964年の間に、5人の命が奪われた凶悪事件です。

犯人は大阪府生まれの当時37歳の男で、逮捕後は5件の殺人、10件の詐欺、2件の窃盗で起訴されています。

裁判で検察は「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」と言い、地裁の判決文には「悪魔の申し子」と記されています。

あまりにセンセーショナルな事件だったため、この事件は「復讐するは我にあり」というタイトルで書籍化され、何度も映画やドラマ化されました。

第一の事件:1963年10月2人殺害

最初の事件は1963年10月18日、福岡県京都郡苅田町で起こりました。

JR九州(旧・国鉄)・日豊本戦の苅田駅近くの仲哀隧道(現・新仲哀トンネル)で、日本たばこ産業(旧・専売公社)の職員・村田幾男さんの遺体が発見されます。

当時、たばこは国の専売で村田さんは、その集金をしていたところでした。

村田さんの遺体の近くで、村田さんを車に乗せてたばこを配送していた運送業者の森五郎さんの遺体も発見されます。

現場からは村田さんが集金したはずの27万円(現在の60万円相当)がなくなっていて、犯人が持ち去ったもと思われました。

目撃情報などから、すぐに近くに住む詐欺や窃盗の膳かがある、西口彰が容疑者として浮かび上がり、その日のうちに全国指名手配犯となりました。

その日、西口彰は女性と逃亡していて、福岡市新柳町の旅館に宿泊しています。

翌朝になって西口は、自分が全国指名手配犯になっていることを新聞で知り、ラジオでは「関西方面に逃走した模様」と放送されたの聞きます。

そこで九州から出ないことに決めて、佐賀県に移動し盗んだ金を競艇につぎ込み21万円(現在の約50万円)を手にするのです。

第二の事件:1963年11月2人殺害

事件から5日後の10月23日、西口彰は福岡県の警察署に死を持って罪を償う内容の手紙を出し、岡山県の宇野駅から香川県の高松駅の間を運行する宇高連絡船・瀬戸丸から投身自殺します。

ところがこれは偽装自殺で、瀬戸丸から遺書の入った上着が見つかるのですが、海中を捜索しても遺体が見つからず、警察も偽装と断定しました。

さらに5日後の10月28日、西口彰は静岡県浜松市の貸席「ふじみ」に現れます。

貸席とは、今で言うラブホテルのようなもので、男性一人でも宿泊することができたため、西口は自身を京都大学教授だと言って女将とその母親を騙し、そこに宿泊します。

逃亡を続けて盗んだ金が底をついてきた西口は、「ふじみ」が女2人だけの所帯なのをいいことに、11月18日に2人を殺して現金と着物類、貴金属を奪いました

また西口は「ふじみ」に宿泊していた間、広島や徳島などに行き、電気店でテレビをだまし取り質屋で金に換えています。

第三の事件:1963年12月1人殺害

12月3日、西口は弁護士に成りすまして千葉地方裁判所に堂々と姿し、拘留中の男の母親をみつけて、保釈手続きを依頼されたと嘘をつき、保釈金をだまし取ります。

また、行方不明の息子を探す父親をみつけ、息子が逮捕されていると嘘をつき、その保釈金をだまし取ります。

西口は弁護士に成りすましているうちに、もっと弁護士らしく見せるために訴訟書類を盗むことを思いつきました

12月20日、その計画を実行するために西口は高齢の弁護士・神吉梅松さんに近づきます。

依頼人を装い、弁護を依頼する振りをして神吉さんを呼び出すのですが、自分の兄が神吉さんの家に来ることになっていると嘘をつき、一緒に東京都豊島区の神吉さんの自宅に向かいました。

家に着いた西口は、高齢の神吉さんが1人暮らしでることを知り、殺害して金品を奪った後、遺体となった神吉さんを箪笥に隠して4日間もそこに潜伏しました。

上の画像は映画「復讐するは我にあり」の弁護士殺害のシーンなのですが、実際の殺人現場の向かいの部屋で撮影されたものです。

西口彰事件の動機は?

西口彰が連続殺人を犯したその動機は、あまりに身勝手で短絡的なものでした。

西口は、たまたま知り合った2人の女性が理容師試験を受けるために、福岡に行くお金がなくて困っていることを知り、そのお金を自分が出そうと考えました。

それは決して慈善の気持ちからではなく、彼女たちの関心をひくためです。

さらに、当時交際していた女性との遊ぶ金や、自らの借金の返済をするために金が欲しかったというのが、この連続殺人の動機だったのでした。

指名手配犯の西口彰を見破った古川るり子とは?

東京で弁護士を殺害した後も、西口彰は逃走をつづけ詐欺や窃盗を繰り返しています。

事件の重要さから西口の指名手配は、重要度の高い「特別指名手配」となっていたのですが、警察は逮捕することができずにいました。

そんな西口は、年が明けた1月2日に熊本県玉名市にある「立願寺」に姿を現します。

西口はここでも弁護士を名乗り、死刑囚の冤罪撤回運動を行っている住職の古川泰龍さんに活動を支援したいと申し出るのです。

古川さんはありがたい話と喜び、西口を家に招き入れて妻と一緒に歓迎するのですが、娘・るり子さんは西口の顔を見て驚きます。

るり子さんは指名手配犯・西川彰の顔を覚えていて、弁護士を名乗る男と同一人物だということに気づいたのでした。

そのことを両親に話しても、最初は取り合ってもらえなかったのですが、母親と姉の愛子さんも手配書を確認したところ、弁護士が西口だと確信しました。

妻や子供たちに言われて、古川さんも弁護士が西口だと確信するのですが、既に家に招き入れてしまったことから、下手な動きをすれば家族に危害が及ふことになります。

そこで古川さんは西口を家に泊めて、寝ている間に警察を呼ぶことを思いつきます。

夜11時過ぎに西口が寝たことを確認すると、妻と長女・愛子さんが家を抜け出して警察に通報しに行ったところ、時間が遅いせいで警官を集めるのに時間がかかり、逮捕は翌朝になりました。

遂に逮捕された西口彰でしたが、「立願寺」に現れた理由は古川さんの活動資金目当てて、チャンスを見計らって家族全員を殺し、金を盗んで沖縄に逃げようとしていたのでした。

西口彰が死刑前に残した言葉とは?

78日間にも及び逃げ続け、逮捕された西口彰は、死刑を言い渡されます。

「立願寺」の古川泰龍さんは、一歩間違えれば一家全員殺されたかもしれないのですが、その後の西口の心のケアに尽力します。

その甲斐あってか西口彰は死刑までの間に改心し、古川さんを慕うようになり死刑の直前、近くにいた囚人に「古川さんが来たらお経をあげて下さいと頼んで欲しい」と伝えました。

もともとクリスチャンだった西口の最後の言葉は「遺骨は別府湾に散骨してください。アーメン」だったそうです。

西口彰には子供がいた?生い立ちが意外過ぎる!?

女性と遊ぶための金欲しさに最初の殺人を犯した西口彰ですが、実は妻子がいました。

妻子がいたにも関わらず、最初の殺人を犯した時に住んでいた福岡県では、別の女性と同棲しています。

逃亡中も数々の女性と関係を持ち、詐欺や恐喝を繰り返しているのです。

西口彰は、どうしてそんな人間になってしまったのでしょうか。

ここからは西口彰の家庭環境や生い立ちについてご紹介していきます。

西口彰の生い立ち

西口彰は1925年12月14日の大阪生まれで、両親がクリスチャンだったことから、子供の頃に洗礼を受けました

3歳の頃に長崎県に移り、父の漁業が成功して家庭は裕福になります。

その後福岡県に移り果樹園の経営を始め、1941年頃には大分県に移り住み、旅館を経営しています。

西口彰は裕福な家庭だった?道を外れてしまった原因は?

西口彰は裕福な家庭の子供として育ち、中学は福岡にある全寮制のミッションスクールに進学します。

しかし、全寮制の厳しい規則に付いて行くことができず、3年の時に学校を辞めて家出してしまいました。

それをきっかけに、金に困ると恐喝や詐欺などの犯罪を繰り返すようになって、何度も少年院に入っています。

西口彰には子供が2人!?家庭内環境は?

西口彰は1946年、20歳の時に19歳の女性と福岡県で結婚して、3人の子供を儲けていました

2年後の1948年には恐喝で逮捕されて刑務所に入り、翌年出所するのですがその後も米ドル不法所持、進駐軍日系二世になりすました詐欺などを繰り返しています。

4度目の服役で36歳の時に出所した西口は、家族を実家に預けて単身福岡で働いていましたが、同棲している女性がいて、その他にも交際している女性がいたそうです。

父親の刑期中の家族がやばい?グレかけた?

戦後最悪の連続殺人と言われるほどの大事件を起こした西口彰の家族は、世間から注目を集め後ろ指を指されることになります。

今のようにネットなどなく、テレビすら少なかった時代ですが、それでも世間の目から逃れることはできず、西口の逮捕時に高校生だった息子は一時グレかけたこともあったそうです。

そんな息子に西口は獄中から手紙を書き続け、「俺のようになるな」と言い続けたとのことです。

また、獄中の西口を支えた「立願寺」の古川泰龍さんは、西口の息子の学費の援助までしました。

西口彰事件は戦後最悪の無差別殺人!その内容と犯人の生い立ちとは

今回は戦後最悪の殺人事件と言われた、西口彰事件についての詳細についてご紹介しました。

西口彰は裕福な家庭で育ったものの、詐欺や恐喝を繰り返し遂には連続殺人まで犯してしまいました

この事件は社会で大きく取り上げられ、映画やドラマにもなり有名俳優の緒形拳さんや役所広司さん、根津甚八さん、柳葉敏郎さんなどが西口彰を演じています。

特に緒形拳さん主演の「復讐するは我にあり」は現在でもU-NEXTなどの配信で見ることができる、日本映画の代表作となっているほどです。