現代の死刑では、なるべく苦痛を与えないことが重視されています。
しかし歴史を遡ると、苦しみを与える為の処刑法も数多く記録されており、特に残酷だと言われているのが凌遅刑(りょうちけい)です。
あまりの残酷さから「凌遅刑」は検索してはいけない言葉、として扱われることもあるほど。
想像を絶する凌遅刑の苦しみとは、どんなものなのでしょう。
また、2003年に福岡で起きた「福岡一家4人殺害事件」犯人は、凌遅刑の歴史がある中国の留学生でした。
悲惨な事件として語り継がれる「福岡一家4人殺害事件」の真相も探っていきます!
目次
凌遅刑(りょうちけい)とは?中国1200年で最悪の残酷な処刑法?
凌遅刑は中国の歴史上最も残酷な処刑法であり、検索してはいけない言葉とされることもあります。
過去中国では、広大な土地を支配するために、恐怖政治で民衆を縛りつけていた時代がありました。
その大きな役割を担ったのが、政府が認めていた凌遅刑だったのです。
長時間苦しみを与え続ける残酷な凌遅刑とは、どのような処刑法だったのでしょうか?
どのような処刑法?
凌遅刑は生きたまま身体を切り落としていく処刑法。
身体は命を落とすまで少しづつ切り落とされることになり、命を落としにくい場所から順番に削っていくのです。
そのため、なかなか命を落とすことができず、苦痛が長時間に渡って与え続けられる残酷な処刑法といわれています。
あまりにも残酷であったことから、親族が執行側に対してお金を支払って、身体を切る場所の順番を変えてもらうこともあったと記録されていました。
これは致命傷となる部位を切り落とすことで、苦痛を感じる時間を減らしなるべく早く命を落とすためです。
どこで行われていた?
凌遅刑は清時代までの中国で行われており、李氏朝鮮時代までの朝鮮半島でも行われていたそうです。
場所によって刑の執行方法に多少の違いはあるものの、生きたまま死ににくい場所から順番に身体を切り落とされる基本スタイルは同じです。
凌遅刑となるのは、国家反逆や皇帝の墓や宮殿などに対するテロリスト行為などをした重罪人でした。
あまりにも残虐すぎるという西洋からのバッシングもあったようですが、中国では1905年まで続いていたのです。
凌遅刑(りょうちけい)を受けた人はいる?
凌遅刑はその野蛮さと残酷さから、中国史上最も残酷な処刑法と言われていますが、実際に刑を受けた人が記録に残っています。
凌遅刑には決まった手順があったようで、まずは額の皮をはいだり罪人の目を潰したりして見えない状態にしていた、ともいわれているようです。
刑を執行する人物の精神的負担を減らす目的があったのでしょう。
劉瑾
凌遅刑を受けた有名な人物の1人が劉瑾(りゅうきん)です。
劉瑾は、明代の悪宦官と言われています。
正徳帝の遊び相手として異例の出世を果たし、国庫を私物化して皇位の地位を奪う計画を立てたとして凌遅刑に処されました。
劉瑾は3000カ所を切り落とされましたが、それでも命を落とすことができませんでした。
そのため、初日は処刑が中断されて獄舎に戻され、なんと夕食で粥を2杯食べたとされています。
処刑は2日目に突入し、さらに300回~400回ほど身体を切り落とされて、ついに劉瑾は命を落としました。
袁崇煥
袁崇煥(えん すうかん)は明の諸葛亮孔明と呼ばれた明末の武将です。
明の17代皇帝、崇禎帝(すうていてい)は清との争いのさなか、敵の策略にはまり、味方であった袁崇煥が謀反を起こすと信じてしまいました。
袁崇煥は敵の謀略によって謀反の疑いをかけられ凌遅刑に処されてしまったのです。
優秀な袁崇煥を失ったことが、明は滅亡の要因の1つとなったと言われています。
洪天貴福
洪天貴福(こう てんきふく)は太平天国を建国した洪秀全の長男で第2代天王です。
父である洪秀全が亡くなった際に、天京(南京)で即位しました。
しかし、天京攻防戦によって天京が陥落し、洪天貴福は逃亡することになります。
その後、清に捕らえられて凌遅刑を受けました。
凌遅刑を受けたときの洪天貴福の年齢は14歳、痛みと苦しみに泣き叫びながら1400回ほど身体を切りとられ命を落としました。
彼は凌遅刑を受けた最年少と言われています。
鄭鄤
鄭鄤(てい まん)は官僚登用試験である科挙に合格して官僚となったエリート人物です。
その鄭鄤は大学士の温体仁(おん たいじん)の怒りを買ったことで、妹と次男の妻への性的暴行と母への暴力の罪を着せられ凌遅刑となりました。
鄭鄤の処刑には多くの市民が見物に来て、鄭鄤の切り落とされた肉を拾って販売する者もいたそうです。
かつて中国では、凌遅刑となったものの肉片を漢方薬として売り買いしていたといわれています。
康小八
康小八は北京や天津で活動していた義賊で、国家の金を何度も盗んでいました。
その康小八は、捕まって西太后の前で傲慢な態度を取ったことで、西太后を怒らせて凌遅刑となりました。
彼は刑の執行中も一度も声をあげず、目隠しをするか否かの問いにも「自分の体を切りとるのだから、見ておきたい」といったようです。
刑が行われたのは1905年で、凌遅刑を受けた最後の人物と言われています。
彼のそぎ落とされた肉片も多くの人が奪い合い、中国の人食の歴史と共に語り継がれています。
現在も凌遅刑(りょうちけい)は行われている?写真や画像は残っている?
時代と共にメディアが発達し、1905年には人食をともなう野蛮すぎる凌遅刑が世界へ発信されました。
清国は強い非難を受け、凌遅刑は廃止とされています。
上記の人物以外にも、多くの人達が凌遅刑を受けていますが、証拠となる写真や画像は残っているのでしょうか。
凌遅刑は現在も行われている?
凌遅刑は現在行われていませんが、過去には実際に行われており、その証拠となる記録や画像が残っています。
中国の記録では1905年、康小八の凌遅刑が最後とされています。
しかし、チベット地方では1910年頃まで刑が執行されていた、ともいわれており、実際には水面下で凌遅刑が執行されていたのかもしれません。
現在中国の死刑は銃殺と薬物による死刑が実施されていますが、近年まで公開処刑をおこなっており、過去の野蛮な風習が息づいていたようです。
凌遅刑の写真や画像は残っている?見れるサイトも?
凌遅刑は1905年まで続いており、当時の写真は現在でも閲覧することが可能です。
凌遅刑で検索すると、様々な画像を見ることができ、凌遅刑を受けた最後の人物である康小八の姿も見ることができます。
身体の肉をはがされている凌遅刑の画像や四肢をはぎ取られ吊るされた姿などは、かなりきついので検索する際も注意が必要です。
福岡一家4人殺害事件で凌遅刑(りょうちけい)が行われた?
凌遅刑は過去に中国で行われていた処刑法です。
しかし、その凌遅刑が中国人によって日本で行われたと噂される事件があります。
その事件は、2003年に起きた福岡一家殺害事件!
残忍すぎる手口や身勝手な犯行動機に、日本中が怒りを爆発させた事件となりました。
被害者宅に押し入り母を襲う
福岡一家殺害事件の犯人は中国人留学生3人で、被害者は夫婦2名とその子ども2名です。
犯人らは被害者宅に鍵のかかっていなかった窓から侵入して、初めに入浴中だった妻を2名で襲いました。
妻はレイプ後に浴槽に頭を押し付けられたことで、溺死させられてしまいます。
一説では妻の身体を切る凌遅刑を行い、通帳の暗証番号を聞き出そうとしていたという噂も流れました。
長男も襲われる
妻を殺害した犯人2名は現金やキャッシュカードなどを物色して、子どもたちを見張っていたもう1人の犯人がいる部屋に向かいます。
犯人らは現金のありかや他のキャッシュカードの暗証番号を聞きだすために、夫の帰宅を待つことにしたのです。
また、夫から暗証番号を聞きだすための人質は1人で良いという判断から、長男が絞殺されました。
夫が帰宅する
夫が帰宅すると、犯人らは大声で夫を呼びつけ、長女にナイフを突きつけながらキャッシュカードの暗証番号を聞き出そうとしました。
このとき、夫が拷問されその拷問方法が凌遅刑だったとも言われています。
しかし夫は抵抗し、なかなか死ななかったので、ひとまず殺害を後回しにしたようです。
夫が娘の命乞いを必死で行っていますが、無慈悲にも長女も絞殺されてしまいました。
遺体を海に遺棄する
犯人らは妻と子どもらの遺体と、瀕死になった夫を車で博多湾の岸壁まで運びダンベルや鉄製の重りなどを付けて海に投げたのです。
犯行後、犯人の2人は事件発覚を恐れて中国へ逃げていますが、中国公安当局に身柄を拘束されています。
残る1人は旅費が工面できなかったことで、知人女性にお金を借りることにしたようです。
しかし、女性のアルバイト先に来たことに文句を言われ腹を立てた犯人は、女性に暴力を振るい暴行の罪で出国前に逮捕されています。
奪ったお金は4万円弱、小遣い欲しさの犯行に日本中から怒りの声があがりました。
凌遅刑(りょうちけい)は非常に残酷な処刑法
凌遅刑は生きたまま命を落とすまで身体を切り落としていく処刑法です。
また、肉は死ににくい場所から順番に切り落とされるため、なかなか命を落とすことができなかったと言われおり、中国史上で最も残酷な処刑法とも言われています。
福岡一家殺害事件では、その残忍な手口から凌遅刑の噂が出ていますが、真相は闇の中です。
罪を犯すこと、死刑という制度について再度考えさせられる歴史ではないでしょうか。