1985年8月12日、日本中を震撼させる出来事が起こりました。
日本航空123便が、群馬県にある標高1565m御巣鷹の尾根に墜落し520名の犠牲を出した日航機墜落事故です。
この日航機墜落事故による生存者はわずか4名、航空事故の死者数は過去最高。
事故現場となった御巣鷹山は救助も難航するほど、山奥でまるで地獄絵図が広がっていたといいます。
検索してはいけないといわれている「福田機関士」はフライトエンジニアとして、日本航空123便搭乗していた人物です。
なぜ「福田機関士」を検索してはいけないのか、その理由がヤバすぎると話題になっていました。
SNSで騒がれている目が4つある遺体とは何か、福田機関士について詳しく紹介していきます。
※画像の中には事故映像も含まれているので閲覧には注意をして下さい。
目次
福田機関士を検索してはいけないのは何故?!
日航機墜落事故の犠牲者の中には坂本九さんなどの著名人も多く乗っていたことで、メディアは連日事故映像を流し続けました。
事故現場には多くの遺体が転がり、原形をとどめていた人はごくわずかだったといわれています。
フライトエンジニアとして搭乗していた「福田機関士」はなぜ検索してはいけないのでしょうか。
福田機関士を検索してはいけない理由はグロ画像?
福田機関士を検索してはいけない理由の1つ目ですが、JAL123便が墜落した当時の画像が出てくるからです。
※以降の画像には閲覧注意のものが含まれます。
非常に悲惨な光景が広がっているもので、こういった画像が苦手な方は、見ることを控えた方が良いほどショッキングな内容になっていました。
犠牲者の遺族の方々にとっては胸が痛む画像であり、事故のことを知る者にとっても見ているだけで、非常に心が痛む内容になっています。
上記の写真には足が砕かれてしまった少女の姿が映っていました。
実際には、福田機関士のご遺体は頭部や両手などが一部欠損、体は炭化していたといわれています。
日航機墜落事故、福田機関士のワードで検索すると出てきますが、人間が一瞬にして灰になったような信じがたい写真になっています。
福田機関士を検索するとどんな写真が出てくる?
福田機関士を検索して出てくる画像の詳細ですが、どれも非常に衝撃的です。
出てくる映像は、御巣鷹山に墜落し救助をしている画像が多くを占めているようです。
しかし日航機墜落事故の犠牲になったご遺体の画像などが確認でき、その画像は炎にまかれ黒く焦げていたり、体の一部が陥没していたりと、墜落の衝撃を物語っています。
また画像によっては、ちぎれた腕や、まるで木の実が付くように木にぶら下がっている数々の体の一部など。
また、当時のテレビや雑誌は現在ほど規制されておらず、現代では載せられないような写真をたくさん載せていました。
中には目をそむけたくなる写真も多くあります。
現在、これらの写真をネットに掲載していると削除されることが多いようで、個人ブログなどに掲載されているものはすぐに消されてしまうようです。
目が4つある遺体も発見された?!
確かに目が複数あるご遺体もあったそうです。
目が4つあるご遺体の真相ですが、「挫滅した顔面に3つの眼球がくっついていた」という信じがたい現実でした。
調査の結果、頸部から他の人の顔面が信じられない程の力でめり込んできたというものでした。
真相は4つではなく3つ目のご遺体であり、複数の頭部が1つになった姿だったのです。
福田機関士と共にコックピットにいたとされる副操縦士の佐々木祐さんは、同じように炭化しており右手のみが欠損していたといいます。
しかし、機長高濱雅己さんは顎の部分しか残っていなかったようです。
520人が2065体の遺体になった?!
520名の遺体が2065体にもなった真相とは、一体なんなのでしょうか。
それは墜落の衝撃により、五体満足な遺体は177体しかいなかったというのが真相です。
墜落時の速度は630キロあったとされており、事故現場はバラバラになった遺体はもちろん、木々に内臓や皮膚など人体の一部がぶら下がっていたといわれています。
結果的に検死総数が「2065体」にも及んだのでしょう。
墜落して亡くなられた遺体が、いかに悲惨であったか物語るエピソードです。
日本航空123便墜落事故は史上最悪の航空機墜落事故!
1985年8月12日、羽田空港から大阪国際空港に向かっていた日本航空123便は「御巣鷹の尾根」へ墜落しました。
この日航機墜落事故は単独機による、航空事故死亡者数は過去最多となっています。
ちょうどお盆時期の帰省ラッシュと重なっていたので、多くの子供達も犠牲になってしまったのです。
しかし、安全点検を行っているはずの日本航空123便は、なぜ墜落することになったのでしょうか?
原因はの真相はどこにあるのか、史上最悪と言われた航空事故の詳細について見ていきましょう。
日本航空123便墜落事故とは
日本航空123便は1985年8月12日、東京国際空港(羽田空港)から大阪国際空港(伊丹空港)に向けて18時12分に離陸しました。
離陸からわずか12分ほどで、垂直尾翼や補助動力装置が脱落したとされています。
更に油圧操縦が作動せず操縦は不能、「どーんと行こう」という機長の言葉を残し、18時56分頃に御巣鷹の尾根に墜落しました。
当時はボイスレコーダーに残った機長の言葉が誤解を生み、機長が乗客を巻き込み自殺したとも騒がれています。
しかしその後の調査で、完全な事故だったことが証明されました。
日本航空ジャンボ機123号が1985年(昭和60年)8月12日に群馬県多野郡上野村高天原山山中(御巣鷹の尾根)に墜落した。日本国内航空事故では、死亡者520人国内最大でる。生存者4人は、日本人女性です。学校の夏休みやお盆休みに重なったこともあった。 pic.twitter.com/kITdbLQQel
— 人生楽しく&和 (@EoPynV9DzvA1GS5) August 11, 2022
福田機関士こと福田博のプロフィール
福田博さんのプロフィールをご紹介します。
- 生年月日:昭和14年
- 居住地:千葉県
- JAL入社年月日:1957年(昭和32年)4月1日
- 総飛行時間:9,831時間3分(うちB747、3,846時間31分)
- B747以外の保有運行資格:DC-6・B727・DC-8
- 当日の動き:羽田-福岡線363、366便からJA8119に乗務
墜落した「ボーイング747」には、約3,900時間乗務しており、ベテランだったことがわかります。
事故直前にも不具合が多数発生!
機体は事故前にも、客室後部の化粧室ドアの不調など不具合が「28件」も発生していたのです。
不具合はその後解消されていたようですが、同機に乗った乗客の証言によると
とあり、不具合は完全に解消されていなかったのかもしれません。
「しりもち事故」を起こしていた?
1978年6月2日には大阪伊丹空港への着陸の際、機体尾部を滑走路面に接触させる事故が起こっていました。
1回目の滑走路絵の接触で機体はバウンド、2回目の接触で尾部を激しく滑走路に擦り付けたといいます。
死者は出ていませんが、この「しりもち事故」により2名が重傷、23名が軽傷を負ったそうです。
この事故が原因で先ほどの「後部不具合」が起きたとの見解も出されています。