【2023最新】日本のおかしい未解決事件65選!有名&恐怖ランキングTOP20も

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安全で平和な国と言われている日本ですが、実は、不可解で目を覆いたくなるような残虐極まりない事件が多数起きているのです。

そして、警察の懸命の捜査にもかかわらず、犯人逮捕に至っていない未解決事件が多くあることも事実です。

今回は、そんな未解決事件をランキング形式、年代別でまとめてご紹介していきたいと思います。

中には、残虐でショッキングな内容が含まれていますので、その点をご了承いただきお読みください。

【2023最新】日本で起こった未解決事件有名ランキングTOP10!

まずは、未解決事件の中でも比較的有名である事件TOP10を紹介していきたいと思います。

世間を騒がせた凶悪事件も、時間とともに忘れ去られてしまいがちですが、被害者や遺族の無念さを思うと、決して風化させてはならないのです。

それでは順に事件を振り返って行きたいと思います。

10位:ファンタジー号事件

「ファンタジー号事件」は、1992年11月23日午後に発生しました。

「風船おじさん」という言葉をお聞きになれば、記憶に残っている方も多数いらっしゃるのではないでしょうか。

出典:ミドルエッジ

ピアノ調律師で自称冒険家でもある風船おじさんこと鈴木嘉和さんがヘリウムガスの入った26個の風船を付けたゴンドラ「ファンタジー号」でアメリカを目指し飛び立ちました。

翌日24日、携帯から妻へ「朝焼けが素晴らしくきれいだ」との連絡が入り、朝の時点では生存が確認されていました。

24日深夜SOS信号が発信されたため、海上保安庁の捜索機が飛び立ち捜索を開始、明朝宮城県金華山沖の海上でファンタジー号の姿を発見します。

風船おじさんは、捜索機に向かい手を振ったり、ゴンドラ内の荷物を投げ落として高度を上げたりしたため、このまま飛行を継続する意思があるものと判断、3時間ほど監視を続けましたがそのまま雲の間に姿を消してしまいました。

その日以来SOS信号が発信されることはなく、アメリカ・カナダ・ロシアに救難要請を出したものの、現在まで誰一人風船おじさんの姿を見た人はいません。

9位:高知大学探検部地底湖行方不明事件

2008年1月5日午後6時15分頃、高知大学探検部のメンバーから、鍾乳洞内で1名が行方不明になったとの通報が入ります。

これが謎の多い「高知大学探検部地底湖行方不明事件」の始まりです。

この日午前11時頃、高知大学探検部のメンバー5人は岡山県新見市にある「日咩坂鐘乳穴(ひめさかたちあな)」という鍾乳洞へ向かいます。

そして午後2時半頃、鍾乳洞の入り口から1.6kmも奥にある地底湖を遊泳していた高知大学3年生の名倉佑樹さん(当時21歳)が行方不明になったのです。

引用:Twitter

現場は水深30mといわれる地底湖であるため、警察の捜索も困難を極め、名倉さんが見つかることなく5日間で捜索は打ち切られました。

この行方不明事件には不可解な点が多いことで、その後も世間の注目を浴びることになります。

・探検部であるのに命綱をつけていなかった

・寒い時期になぜ名倉さん1人だけ遊泳したのか

・探検部部長が記者会見を拒み続けた

・探検部ホームページから部長・副部長の名前が真っ先に削除された

・名倉さんのmixiが捜査中何者かに削除された

男女の恋愛関係のもつれによる殺人事件ではないかとの憶測も流れましたが、未だ真相は闇の中です。

8位:嵐真由美さん失踪事件

「洋子の話は信じるな」のメモで有名な「嵐真由美さん失踪事件」は1994年9月2日発生しました。

出産を控えた嵐真由美さん(当時27歳)は、東京都墨田区にある実家に里帰り中、同級生に会ってくると言い残したまま1歳になった娘を残し忽然と姿を消したのです。

冒頭の「洋子の話は信じるな」との謎のメモは、あるテレビ番組でこの失踪事件を取り上げた際画面に映り込んでしまったもので、様々な憶測を生むきっかけとなりました。

洋子とは真由美さんの実の姉の名前で、真由美さんの失踪後の証言のほとんどが洋子さんからのものだったのです。

洋子さんの証言が疑問視される理由としてあげられるのが、タンスに残されていた真由美さんの不倫を示すメモです。

姉の洋子さんがこのメモを見つけ、読んだ後捨ててしまったというのです。

今となっては、そのメモが実際に存在したのかどうかさえ闇の中となってしまいました。

謎めいた「嵐真由美さん失踪事件」ですが、何らかの形で解決したのではないか、との情報があるようです。

嵐真由美さんは行方不明者として、非営利団「日本行方不明者捜索・地域安全支援協会(MPS)」のWEBページに登録されていました。

しかし、今現在真由美さんの情報欄には「ご協力ありがとうございました」の文字が表示されているというのです。

真由美さんが無事に発見されたのかどうかはわかりませんが、この情報が事実であるなら解決してほんとうに良かったのですが、いずれにしても事件の真相は謎のままですね。

7位:坂出タケノコ掘り女児行方不明事件

2005年4月29日、まるで神隠しにでもあったかのような不可思議な「坂出タケノコ掘り女児行方不明事件」が発生しました。

その日、大西有紀ちゃん(当時5歳)は、香川県五色台連絡協議会主催のたけのこ掘りイベントに、母親・3歳上の姉と一緒に参加していました。

しかし、午後1時45分頃、母親に「もう1本取ってくる」という言葉を言い残し竹林に向かって走り去ったのが最後の姿となってしまったのです。

午後2時の集合時間になっても有紀ちゃんは戻って来なかったため、家族と他の参加者で付近を捜しましたが、有紀ちゃんは見つかりません。

午後3時頃警察へ通報、午後3時45分警察が現場に到着し捜索開始、午後5時には地元の消防団等も加わり懸命な捜索が続けられましたが、午後9時になっても有紀ちゃんを発見することは出来ませんでした。

そんな中、事件当日1匹、翌日には4匹の警察犬が投入され、有紀ちゃんの水筒の匂いを頼りに行方を追ったところ、5匹全ての警察犬が全く同じ場所でぴたりと足を止めたというのです。

車が入る事も出来ないような奥深い山中で、突然匂いが消えてしまったことから、イヌワシに連れ去られたのではないかとの説もあるようです。

18年近く経った現在も、有紀ちゃんの足取りは全くつかめていません。

6位:カアイソウ、カアイソウ事件

「カアイソウ、カアイソウ事件」という何とも不気味な事件をご存じでしょうか。

1991年3月15日、三重県四日市市富田の自宅から、当時小学2年性だった加茂前ゆきちゃんが失踪したとされる事件です。

その日、加茂前ゆきちゃんは午後2時に友達と別れたあと帰宅、午後2時半に母親から自宅に電話が入った際にはゆきちゃんが対応をしているので、その時点での所在は確認できていました。

ところが、午後3時半にゆきちゃんの姉が帰宅した時には、既にゆきちゃんの姿はなく、ゆきちゃんが大好きだったココアがまだ温かい状態で飲みかけのまま置いてあったとのことです。

ゆきちゃんが帰宅時父親は在宅していましたが、夜勤明けだったため熟睡中で、ゆきちゃんの行動を把握できていませんでした。

事件発生後、無言電話がかかってきたり不可解な出来事がありましたが、何よりもこの事件が世間に知れ渡たるきっかけとなったのが、3年後ゆきちゃんの父親宛てに届いた、何とも不気味で謎の多い「怪文書」の存在でしょう。

引用:peing.net

いったい誰が何の目的でこのような怪文書を送り付けてきたのでしょうか。

多くの謎に包まれたこの失踪事件は、発生から15年が経過した2006年に時効を迎え、未解決事件として捜査が打ち切られてしまいました。

しかし、未だに加茂前ゆきちゃんの発見には至っていません。

5位:八王子スーパー強盗殺人事件

1995年7月30日、東京都八王子市にあるスーパー「ナンペイ大和田店」で閉店直後、3人の女性従業員が拳銃で射殺されるというショッキングな事件が発生しました。

この残虐な事件こそが「八王子スーパー強盗殺人事件」といわれている凶悪事件です。

被害者は、パート従業員 稲垣則子さん(当時47歳)、アルバイト前田寛美さん(当時16歳)、同じくアルバイト矢吹恵さん(当時17歳)の3名です。

最初に殺害されたのは稲垣さんと見られていて、銃把で右顔面を殴られ、金庫の脇に突き飛ばされた後、額と頭頂部を1発ずつ撃たれたのではないかと推測されています。

前田さんと矢吹さんの二人は口を粘着テープで塞がれ、お互いの右手の左手を縛られた状態で、いずれも頭部に至近距離から銃弾を受け即死状態でした。

この日閉店後の午後9時16分頃、事件現場である事務所のセキュリティーシステムがロックされた後、1分後には解錠されているため、帰宅しようとした3人が犯人に脅され事務所に押し戻された後犯行に及んだと思われます。

事件に使用された拳銃は、フィリピン製のスカイヤーズ・ビンガム(回転式38口径)です。

事件当時、フィリピンから多くの粗悪品が密輸されたと言われていて、犯人が使用した拳銃もそれである可能性が高いと言われています。

粗悪品で扱いが難しいにもかかわらず、短時間の間に3人の命を確実に奪って逃走していることから、プロの犯行ではないかとも推測されます。

当初から、不審な男や車両の目撃情報はあったものの、犯行目的が金品なのか怨恨なのかも特定できず、犯人は未だ逮捕されていません。

一般女性が拳銃で射殺されるという残忍極まりない事件は、世間を震撼させ、日本の銃犯罪のターニングポイントとなってしまったと言えるでしょう。

「人を死亡させた罪」のうち、法定刑の上限が死刑であるものについての時効は撤廃されたため、この事件は今現在も警察による捜査が継続中です。

4位:井の頭公園バラバラ殺人事件

日本で最初の郊外公園として100年以上にわたって多くの人々に親しまれている井の頭公園で、1994年4月23日、「井の頭公園バラバラ殺人事件」と呼ばれる惨劇が発覚します。

この日、清掃員の女性が猫のエサになるものを探していて、偶然ゴミ箱からポリ袋を取り出したところ、中に人間の足首が入っているのを発見、警察に通報しました。

その後駆けつけた警察官らによって公園一帯が捜索され、7箇所のゴミ箱から人間の手足や胴体の一部が入ったポリ袋が合計27個発見されたのです。

それらのポリ袋は、漁師が良く使うとされる固い結び方がされており、不気味なことに遺体はどれも20cmほどの大きさに切り揃えられ、血液をほぼ完全に抜かれた状態だったそうです。

被害者の身元を隠すためか、手足の指紋はほぼ削り取られていましたが、ほんのわずかに残っていた指紋とDNA鑑定により、被害者は公園近くに住んでいた一級建築士の川村誠一さんと断定されました。

警察の懸命な捜査が行われましたが、犯人に結び付くような手掛かりは全く見つかりませんでした。

あまりにも残忍な殺害手口であったため、怨恨説も考えられましたが、川村さんの周辺でトラブルは一切なく、人間関係も良好であったことから、更に捜査は難航しました。

そして、2009年4月23日、犯人逮捕に至ることなく時効が成立しました。

そして時効から6年後、被害者の川村さんは人違いで殺害されたのかもしれないという驚くべき情報が流れたのです。

当時、この地域で露天商をしていた男性が川村さんと瓜二つで、川村さんの自宅とその男性が借りていた倉庫がすぐ近くだったそうです。

度々起きる露天商同士のトラブルがきっかけでこの男性は命を狙われていたため、背格好がそっくりな川村さんが露天商と間違われ殺されてしまったのではないかと言うのです。

しかしながら、捜査が打ち切られている今、この事件の真相は無念にも闇に葬り去られてしまいました。

3位:名古屋妊婦切り裂き殺人事件

1988年3月18日、日本で最も猟奇的といわれる「名古屋妊婦切り裂き殺人事件」が発生しました。

被害者となったのは守屋美津子さん(当時27歳)、臨月を迎えた妊婦でした。

守屋さんの夫Aさんは妊婦の守屋さんを気遣い、毎日定期的に自宅に電話を入れていたそうです。

予定日を5日経過していた事件当日、Aさんがお昼12時頃守屋さんに電話をした際、特に異変は感じられなかったようですが、帰宅直前の電話に守屋さんが出ることはなかったそうです。

自宅に戻ったAさんは、玄関の鍵が施錠されておらず電気もついていないことに違和感を覚えつつ、部屋着へ着替えていたところ、かすかな赤ん坊の声を耳にしたのです。

驚いて声のする居間へと駆け付けたAさんは、この世のものとは思えないおぞましい光景を目にすることになるのです。

辺りは一面血の海、首にはこたつのコードが巻かれ、お腹を切り裂かれた守屋さんの足元で赤ん坊が力なく泣いていたのです。

引用:Twitter

Aさんは救急車を呼ぶため電話をかけようとしましたが、あるはずの電話が見つからなかったため、急いで階下の住人に電話を借り、救急車を要請したのです。

守屋さんと赤ん坊は病院に搬送されましたが、残念ながら守屋さんは死亡が確認されました。

赤ん坊は、切り傷があったため貧血と低体温の症状があったものの、発見が早かったため奇跡的にも一命を取り留めました。

この事件は、被害者である守屋さんの殺害された状況があまりにも異常で猟奇的であったため、日本中を震撼とさせたのです。

・臨月であった守屋さんのお腹は真っ二つに切り裂かれていた

・赤ん坊はへその緒がついた状態で取り出され、遺体の足元に放置されていた

・守屋さんは両手を縛られ、首にはコタツのコードが巻かれていた

切り裂かれたお腹の中に、自宅の電話機とミッキーマウスのキーホルダーが押し込まれていた

司法解剖の結果、守屋さんの死因は窒息死で、お腹を切り裂かれたのは殺害された後であることがわかりました。

事件当日、現場アパートの1階住民や近所に住む小学生が、30代くらいの不審な男を目撃していたことがわかりましたが、犯人特定には至らず、2003年3月18日時効が成立となりました。

殺害された守屋さんの切り裂かれた腹部にに押し込まれていた電話機とキーホルダー、それがいったい何を意味するものであったのか、その謎を解明することなく事件は迷宮入りとなってしまったのです。

残されたAさん親子は、事件から30年以上経った現在は海外に移り住んでいるとのことです。

2位:世田谷一家殺人事件

新年を間近に控えた2000年12月30日の深夜、東京都世田谷区で一家4人が惨殺されるという凄惨な事件が発生しました。

「世田谷一家殺人事件」です。

事件当日夜、浴室の網戸が落下し、フェンス近くの木が折れていたことから、犯人はフェンスをよじ登り浴室の窓から侵入したものと思われます。

そして一家4人を次々と殺害して行ったのです。

被害者は、宮沢みきおさん(当時44歳)、妻泰子さん(当時41歳)長女にいなさん(当時8歳)、長男礼ちゃん(当時6歳)の一家4人です。

引用:東京新聞

犯行① 中2階の子供部屋で礼ちゃんを殺害(窒息死)

犯行② 1階階段下でみきおさんを殺害(刺殺)

犯行③ ロフトで寝ていた泰子さんとにいなちゃんを殺害(刺殺)

礼ちゃんは布団に顔を押し付けられたことによる窒息死、礼ちゃん以外の3人はいずれも首などを包丁で刺されたことによる失血死でした。

そして犯行時、被害者の激しい抵抗に合ったためか、犯人は自らの手にもかなりの傷を負ったとみられています。

この事件では、犯行後の犯人の異常性が伺える行動が注目を集めました。

犯人は、すぐに逃走することなく、10時間近く現場に留まっていたことがわかっています。

そして、同室内でアイスクリームを食べ、パソコンを捜査して劇団のチケットを予約した形跡がみられました。

現場には、犯人の指紋や血痕、足跡などが残されており、着用していたと思われるトレーナーやバッグなどもそのまま置かれていました。

数々の証拠や遺留品があったにもかかわらず、未だ犯人は逮捕されていません。

事件から22年が経過した現在も、警察は懸賞金を掛け、懸命な捜査を行っています。

1位:三億円事件

昭和の犯罪史に名を馳せた未解決窃盗事件、いわゆる「三億円事件」は1968年12月10日に発生しました。

この日、東京都府中市の東京芝浦電気(現在の東芝)の従業員に支給される予定だったボーナス約3億円を積んだ現金輸送車が、白バイ警官に停止するよう命じられました。

警官は、車に爆弾が仕掛けられているので運転手らに避難するよう指示、運転手らが車を離れたスキに警官は輸送車に乗り込み走り去ってしまったのです。

警官と見られていた人物は偽の警官で、白バイも市販のオートバイを白く塗って偽装されたものでした。

警察を装った大胆な犯行であり、被害総額も3億円と巨額(今でいう10~20億円の価値)であったため、警察の威信をかけた懸命の捜査が進められました。

そして、日本で一番有名と言っても過言ではないあのモンタージュ写真が作成されたのです。

引用:時事ドットコム

現場には犯人が使用したオートバイが乗り捨てられていたこともあり、早期に事件が解決されるものと思われていましたが、1975年12月10日に残念ながら時効を迎えることとなります。

三億円事件は、多くの容疑者が浮上していましたが、最も有力とされていた人物は、父が白バイ隊員であった少年S(当時19歳)です。

Sは非行少年グループのリーダーであり、事件直前に窃盗事件を企てていたことがわかったため容疑者とみられていましたが、後に自殺を図り、家宅捜索でも現金が見つかる事はありませんでした。

そんな中、2018年に白田という人物により発表された小説「府中三億円事件を計画・実行したのは私です。」が世間を騒がせました。

真犯人を名乗る白田が犯行に至るまでの記録や事件の詳細が綴られているものの、青春小説の要素が極めて強いため真偽は不明です。

稀に見る完全犯罪となったこの「三億円事件」は、半世紀以上経った現在でも、ことあるごとにマスコミに取り上げられています。

【2023最新】日本で起きた未解決事件恐怖ランキングTOP20!

不気味でぞっとする恐ろしい事件、発生当初はみな犯人に怯え、一日も早い事件解決を望むに違いありません。

しかし、そのような恐ろしい事件ですら時間とともに記憶の彼方へ忘れ去られてしまうものです。

続いて、未解決事件の中でも世間を恐怖のどん底に陥れた怖い事件のTOP20を紹介します。

20位:日本橋室町一丁目チケットショップ内女性店員殺人事件

2004年9月27日「日本橋チケットショップ内女性店員殺人事件」は発生しました。

その日午後6時50分頃、東京都中央区日本橋室町にあるチケットショップ「ビックチケット日本橋店」内に、刃物を手にした中年の男が突然侵入しました。

そして、一人で閉店作業をしていたとみられる女性店員(当時37歳)に襲い掛かり、持っていた刃物で胸や腹部等数か所を刺し、逃走しました。

警報装置が作動したため、5分後の午後6時55分頃駆け付けた警備員によって被害者は発見されましたが、その後病院で死亡が確認されました。

その後の警察の発表で、店内の防犯カメラに犯人と思われる男が映っていたこと、犯人の遺留品と思われる紳士用の傘が残されていたこと等がわかりました。

この事件には、延べ1万人以上の捜査員が動員されましたが、犯人の映像があるにもかかわらず、未だ犯人逮捕には至っていません。

今現在も警察による捜査は続けられ、情報提供を呼び掛けています。

19位:悪魔の詩訳者殺人事件

1991年7月11日悪魔の詩訳者殺人事件」は発生しました。

この日、筑波大学助教授の五十嵐一さんが、大学キャンパス内のエレベーターホールで殺害されているのを、女性清掃員が発見しました。

首には頸動脈まで達するほどの刺し傷が3箇所あり、切断寸前だったといわれています。

右側胸部と腹部にも複数の刺し傷があり、一部は肝臓にまで達する深さだったそうです。

目を覆いたくなるような残忍な犯行、首を切られるという殺害方法はイスラム式の処刑であると報じられました。

殺害された五十嵐一さん
引用:デイリー新潮

それでは、なぜ五十嵐さんはこのような残虐な殺され方をしなければならなかったのでしょうか。

事件の背景には、見出しにもある「悪魔の詩」が深く関わっているものとみられています。

イギリス系インド人作家サルマン・ラシュディ氏によって執筆された小説「悪魔の詩(原題:The Satanic Verses)」の日本語訳を担当したのが五十嵐さんでした。

この「悪魔の詩」は、イスラム教徒を揶揄する内容が多く書かれており、イスラムに対する挑発であると言われ、イスラム社会では禁書とされる曰くつきの作品でした。

当然イスラム教徒からは激しい反感を買い、当時のイラン最高指導者ホメイニ氏により「悪魔の詩」にかかわった全ての人間に対して死刑宣告されました。

五十嵐さんは間違いなくこのイスラム社会の禁書「悪魔の詩」を訳したことによる報復として殺害されたのでしょう。

その後の捜査で、現場には五十嵐さんのものとは異なるO型の血痕と、27.5㎝の中国製カンフーシューズと思われる足跡が残されていました。

当初警察は、筑波大学に短期留学中だったバングラディシュ人の学生を容疑者としてマークしていたようです。

しかし、この容疑者は事件発生翌日の1991年7月12日昼過ぎに成田空港から出国、バングラディッシュへと帰国していました。

イスラム諸国との関係悪化を懸念して、日本政府はこの留学生に対する捜査を打ち切りにしたとの情報もあります。

そして事件は解明することなく、2006年7月11日に時効が成立し未解決事件となりました。

18位:グリコ・森永事件

「グリコ・森永事件」とは、1984年・1985年に発生した連続脅迫事件です。

1984年3月、江崎グリコ社長を誘拐して身代金を要求する事件が発生、社長は自ら脱出し無事でしたが、この誘拐事件を皮切りに推理小説さながらの脅迫事件が連続で発生することになるのです。

「かい人21面相」と名乗る犯人グループは、その後も江崎グリコに対して脅迫や放火を起こし、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋などの食品企業に対しても次々と脅迫事件を起こします。

しかし、いざ現金の受け渡しとなると、犯人グループは受け渡し場所を二転三転させ、捜査を撹乱させるばかりで一向に姿を現さないのです。

そんな中、現金受け渡しのやり取りの中で、2度ほど犯人の一味と思われる怪しい男が目撃されています。

犯人の1人とされる「キツネ目の男」
引用:文春オンライン

なかなか犯人グループにたどり着くことが出来ない中、執拗な脅迫は続いていったのです。

『森永の どあほどもは テープと 青さんソーダの かたまりと 青さんいりの かし おくったのに 信じへんで けいさつえ とどけおった わしらに さからいおったから 森永つぶしたる 青さんいりの かし 50こ よおい してある』 (1984年10月7日投函分、一部抜出)

引用:集英社オンライン

そして、この恐ろしい脅迫文に書かれていることが実際に起こってしまったのです。

大阪、兵庫、京都、愛知で相次いで発見された「どくいり きけん」のメモが貼られた森永の製品、それらには実際に青酸ソーダが混入していることがわかり、世間を不安と恐怖に陥れました。

企業へ次々と送られてきた脅迫状、そして報道機関へは挑戦状と思われるものを送り付けてくるなど、日本社会全体を巻き込んだ劇場型犯罪と呼ばれたこの一連の事件は、2000年2月13日に時効を迎えました。

犯人グループの目的はいったい何だったのか、謎の多いこの事件も未解決に終わっています。

17位:パラコート連続毒殺事件

「パラコート連続毒殺事件」は1985年4月~11月にかけて、日本全国で発生した無差別連続殺人事件です。

パラコートとは、当時日本で最も多く使用されていた除草剤のひとつで、犯人はあらかじめ購入しておいた飲み物にパラコートを混入、蓋をした後自動販売機の取り出し口に置いておくという犯行を繰り返しました。

そして、不運にもそれを口にしてしまった12名もの尊い命が奪われてしまったのです。

1985年4月30日 広島県福山市の自動販売機
トラック運転手(45歳)が飲み物を購入時、自販機の上に置いてあったオロナミンCを飲み、5月2日死亡。吐瀉物からパラコートが検出されたました

1985年9月11日 大阪府泉佐野市の自動販売機
男性(52歳)が釣りの帰りにオロナミンCを購入、取り出し口に同じ商品がもう1本あることに気づき2本とも持ち帰ります。帰宅後に飲んで9月14日に死亡。飲み残しからパラコートが検出されました。

1985年9月12日 三重県松阪市の自動販売機
大学生(22歳)が、自宅近くでリアルゴールドを購入、
取り出し口にもう1本同じ商品があることに気づき2本とも持ち帰します。帰宅後に飲んだところ14日死亡しました。
除草剤のひとつであるジクワットが検出されました。

1985年9月19日 福井県今立町(現越前市)の自動販売機
男性(30歳)が自動販売機の下に置いてあったコーラを飲んだところ気分が悪くなり病院に駆け込みましたが、9月22日に死亡しました。胃洗浄、飲み残したコーラの両方からパラコートが検出されました。

1985年9月20日 宮崎県都城市の自動販売機
男性(当時45歳)が自動販売機で飲み物を買おうとしたところ取り出し口にリアルゴールドが2本あるのを見つけて持ち帰ります。帰宅後に飲んだ直後、体調不良を訴えますが9月22日に死亡しました。飲み残しからはパラコートが検出されました。

1985年9月23日 大阪府羽曳野市の自動販売機
男性(50歳)が飲み物を買おうとしたところ、取り出し口にオロナミンCを2本見つけ、2本とも持ち帰ります。9月25日に飲んだ後、翌日に容体が急変し10月7日に死亡しました。パラコートが検出されています。

1985年10月5日 埼玉県鴻巣市の自動販売機
男性(44歳)が飲み物を買おうとしたところ、取り出し口にオロナミンCが2本あるのを見つけて2本とも持ち帰ります。翌日飲んだ後、10月21日に死亡に死亡しました。飲み残しからパラコートが検出されています。

1985年10月15日 奈良県橿原市の自動販売機
男性(69歳)が、飲み物を買おうとしたところ取り出し口にドリンクが2本あるのに気づき、2本とも持ち帰りました。帰宅して飲んだ後、11月13日に死亡しました。飲み残しからパラコートが検出されました。
1985年10月21日 宮城県
男性(55歳)が同様に死亡しています。
1985年10月28日 大阪府河内長野市の自動販売機
男性(50歳)が、取り出し口にあったオロナミンCを見つけて飲み、1か月後に死亡しました。パラコートが検出されています。
1985年11月7日 埼玉県浦和市(現さいたま市)の自動販売機
男性(42歳)がオロナミンCを購入したところ取り出し口に2本あることに気づき2本とも持ち帰ります。帰宅後に飲んだ後11月16日に死亡しました。
1985年11月17日 埼玉県児玉郡の自動販売機
女子高校生(17歳)がドリンクを購入した際、取り出し口にコーラを見つけ持ち帰ります。コーラを飲んだ1週間後に死亡しました。飲み残しからパラコートが検出されました。

事件当時、パラコートは18歳以上で身分証を提示すれば、農協などで購入が可能であったことから、犯人は18歳以上で農業関係に詳しい人物ではないかと推測されていました。

しかし、指紋や遺留品が全く見つかっておらず、当時は防犯カメラの設置率も低かったためか、懸命の捜査も虚しく、未だに全ての事件が未解決のままです。

16位:岩井市女子高生殺害事件

「岩井市女子高生殺害事件」は2004年6月20日に発生しました。

その日午前7時前頃、茨城県坂東市(当時は岩井市)の利根川沿いにある排水路脇の草むらの中で、女子高生の平田恵里奈さん(当時16歳)がうつぶせに倒れているのを通りかかった男性が発見しました。

平田さんは、発見された時点で意識不明であったもののまだ息はしており、すぐに病院に搬送されましたが、残念ながらその後死亡が確認されました。

死因は首を絞められたことによる窒息死で、平田さんが発見当初首から下げていた携帯のストラップが犯行に使用されたものとみられます。

平田さんは、靴を履いていませんでしたが靴下が汚れていなかったため、別の場所で殺害された後、発見された場所に遺棄されたようです。

被害者となった平田恵里奈さんが殺害されるまでの行動を振り返ってみましょう。

2004年6月19日午後2時頃、平田さんは友人4人で自宅から12km離れたファミレスで食事をした後、一旦帰宅します。

翌20日午前0時頃友人と2人でファミレスに再来店します。

同日午前4時から5時頃の間に、平田さんはファミレスの正面にあったコンビニを3度にわたって訪れていることが防犯カメラによって確認されています。

2回目にコンビニを訪れた際、ナイフが付いている工具を購入していることがわかっています。

午前5時45分頃、平田さんのプリペイド携帯電話から警察に3回ほど通報が入りました。

1回目は会話をすることなく切れてしまいましたが、その後「財布をすられたので最寄りの警察署の電話番号を教えて欲しい」という内容の110番通報が2回入りました。

警察は、最寄の境警察署の電話番号を平田さんに伝えましたが、その電話から約1時間後に意識不明で倒れている平田さんが発見されることになるのです。

この1時間の間に、平田さんの身にいったい何が起こったのでしょうか。

最初に訪れたコンビニから1キロ離れた別のコンビニにで平田さんの自転車が発見されたことから、平田さんは午前5時頃このコンビニに向かったと見られます。

しかしこのコンビニは午後11時に閉店しているため、誰かと待ち合わせをしていたとの見方もあるようです。

最初のコンビニでナイフ付きの工具を購入したのも、護身用のためであった可能性も考えられます。

事件発覚後、「平田さんに携帯を買い与えたのは自分である」とひとりのスリランカ人男性(当時36歳)が警察に出頭しますが、不法残留だったためその場で即逮捕となりました。

調べに対し、男性は事件への関与を否定しており、事件当日のアリバイもあった上、証拠も見つからなかったため犯人とは特定されませんでした。

茨城県警は現在も事件に関する情報提供を呼び掛けています。

15位:青酸コーラ無差別殺人事件

「青酸コーラ無差別殺人事件」とは、1977年1月と2月に東京と大阪で起こった無差別殺人事件のことを言います。

最初の事件は1977年1月3日午後11時半頃発生しました。

冬休み中東海道新幹線のビュッフェでアルバイトをしていた男子高校生(当時16歳)が、アルバイトを終え東京都港区の宿舎へ戻る途中、品川スポーツランド(現品川プリンスホテル)正面の公衆電話に未開封のコーラが置いてあるのに気づきます。

そのコーラを宿舎に持ち帰り、翌4日の午前1時過ぎに飲んだところ、男子高校生は異様な味を感じたためすぐに吐き出し口をゆすぎましたが、その後突然意識を失って倒れてしまいました。

直ぐに病院に搬送され、胃洗浄など懸命な救命措置が施されましたが、残念ながら死亡が確認されました。

死因は青酸中毒でした。

事件現場に残されていたコ-ラのビンから青酸反応が出た確認されたため、青酸入りコーラを使った殺人事件であると断定されました。

青酸入りコーラが置かれていた電話ボックス
引用:時事ドットコム

1977年1月4日午前8時15分ごろ、被害者となった男子高校生がコーラを拾った電話ボックス周辺を捜索していたところ、電話ボックスから第一京浜を約600m北に行った歩道で、男性作業員(当時46歳)が倒れているのを発見しました。

この作業員男性も直ちに病院に運ばれましたが、死亡が確認され、死因は男子高校生と同じく青酸中毒でした。

男子作業員が倒れていた現場近くに、作業員が飲んだとみられるコーラのビンが発見され、残っていたコーラから青酸反応が検出されたのです。

「青酸コーラ無差別殺人事件」で2人目の犠牲者が出てしまいました。

東京での事件から約1ヶ月後の2月13日午前6時20分頃、大阪府藤井寺市在住の会社員男性(当時39歳)が、出勤途中にたばこを買おうと立ち寄った酒屋の公衆電話に、コーラのビンが置かれているのを発見しました。

同僚に止められましたが、男性は、大丈夫と言いながらコーラを飲んだところ突然意識不明となり、病院に搬送されました。

男性が飲んだコーラのビンからは、同じく青酸反応が検出されましたが、男性は幸い一命を取り留めました。

ところが、退院をした翌日にこの男性が自宅でガス自殺をしているのが発見されたのです。

遺書はなかったものの、自殺する直前に家族に対して「東京の事件を知っていながらこの様な事態を起こしてしまい世間に顔向けができない」などと漏らしていたそうです。

この大阪の事件では、「男性がコーラを飲んでいる場面を実際にみた者が一人もいない」「男性には青酸中毒特有の症状はみられなかった」との報道もあり、男性の自殺の理由も含めて謎が残る事件です。

その後ほとんど同時期に、東京で怪しいチョコレートが発見されるという事件が複数件発生しました。

「青酸コーラ無差別殺人事件」との関連はわかっていませんが、模倣犯と見られているようです。

一連の連続無差別殺人事件も、模倣犯と思われる事件も、指紋や証拠が見つからないため、懸命の捜査も虚しく1992年1月4日午前0時に時効が成立し未解決事件となりました。

被害者を2名出したこの「青酸コーラ無差別殺人事件」は、模倣犯と思われる事件まで発生してしまうほど、日本中を震撼させ、社会的影響も非常に大きい事件だったと思われます。

14位:名古屋ホストクラブ経営者拉致殺害事件

2001年9月1日「名古屋ホストクラブ経営者拉致殺害事件」発生しました。

この日午後11時頃、名古屋市中区富士見町の路上で、帰宅途中の風俗店経営者の男性(当時54歳)が、作業着とヘルメットをかぶり工事作業員に扮した10人前後の集団に襲われました。

男性は、数発の銃撃を受けて倒れた後も暴行を受け、車のトランクに無理やり押し込まれ、更に至近距離から2,3発の発砲され、連れ去られてしまいました。

犯行の最中、騒ぎに気付いた男性の知人女性が大声で助けを求めますが、女性に気付いた犯人グループはこの女性に対しても発砲、そのうちの一発が女性の首を貫通し重傷を負いました。

この連れ去りの一部始終を、近所で目撃した第三者が撮影をしていました。

かなりショッキングな映像なので、閲覧には十分ご注意下さい。

男性は既にトランク内で死亡していたとみられ、犯人グループは男性の所持金と身に着けていた貴金属等を奪い取り、遺体を損壊した後ドラム缶にコンクリート詰めにして滋賀県彦根市の川に沈めたのです。

その後の捜査で、犯人の一人が携帯電話を現場に落としていたことから、犯人グループの身元が割り出され逮捕されました。

主犯格は、元山口組系暴力団員男性(当時33歳)、人材派遣業男性(当時43歳)、無職の女性(当時30歳)、実行役は人材派遣業で働いていたとみられる日系ブラジル人男性数人(うち2人は逮捕監禁容疑で指名手配中)です。

逮捕された犯人の供述に基づき捜索した結果、コンクリート詰めのドラム缶がみつかり、中には経営者男性とみられる遺体が発見されました。

以前から、被害者男性は加害者男性と路上で言い争っている姿が度々目撃されていて、この事件が起きる前にも集団に襲われ警察沙汰にもなっていました。

どうやら両者の間には金銭トラブルがあったとみられています。

この事件が起きが現場は、名古屋市営地下鉄鶴舞駅の近くで、大通りに面しているため人通りや車通りも多い場所でした。名古屋市営地下鉄の通る大通りに面していたところでした。

しかも、愛知県警中警察署からたった500メートルしか離れていない場所で、大胆にもこのような犯行が行われたのです。

犯行には暴力団が関与している可能性が非常に高いようですが、犯行の様子が写された映像の存在が、世間を更なる恐怖に陥れた事件となりました。

13位:田畑作之介ちゃん轢き逃げ連れ去り事件

1978年3月3日午後4時半頃、大阪府大阪市住之江区の道路上で、自宅近くに住む田畑作之介ちゃん(当時3歳)が車に撥ねられた後連れ去られるという事件が発生しました。

「田畑作之介ちゃん轢き逃げ連れ去り事件」です。

作之介ちゃんは頭から血を流し危険な状態であったため、撥ねた男本人が「どこの子やろ?救急車を待ってられないから自分でこの子を病院に連れて行く」と言い、作之介ちゃんを車に乗せ走り去りました。

作之助ちゃんと一緒にあそんでいたAちゃんはすぐに作之助ちゃんの母親を呼びに行き、一緒に事故現場へと戻りましたが、既に作之助ちゃんも犯人の車も見当たりませんでした。

その後母親は、犯人の言葉を信じ近くの病院を手当たり次第に探し回りますが、作之助ちゃんが運ばれた病院は見当たらず、慌てて警察に通報しました。

翌3月4日になっても、作之介ちゃんが病院に運ばれたとの情報がなかったため、大阪府警住吉署は誘拐容疑事件とみて捜査本部を設置し、本格的な操作を開始しました。

作之介ちゃんが車に撥ねられ連れ去られた時刻は、夕方で比較的人通りの多い時間帯だった事もあり、通行人や近くの建築現場の作業員等、少なくとも8人の目撃者がいました。

目撃者の証言をいくつかまとめました。

・40歳くらいの中年男性

・車は白のカローラとみられる

・仕事帰りの時間帯であったがスーツ姿ではなかった

・南の方向へと走り去った

モンタージュ写真を作成するなどの捜査が続けられましたが、Nシステムや防犯カメラもまだ未整備の時代であったため、目撃者は多いものの肝心のナンバープレートは判明しませんでした。

懸命な捜査にもかかわらず、1983年3月3日午前0時に業務上過失致死及び略取誘拐罪での時効が成立、その後殺人事件としても時効が成立し未解決事件となってしまいました。

しかしながら現在も連日の様に事件に関する情報が寄せられていることから、捜査本部は専従捜査員15人を配置し、FBI方式で引き続き捜査が進められています。

12位:BOACスチュワーデス殺人事件

1959年3月10日午前7時40分頃、東京都杉並区の善福寺川下流で、BOAC航空(現ブリティッシュ・エアウェイズ)の日本人女性客室乗務員(当時27歳)が水死体で発見されました。

当初は自殺とみられていましたが、翌3月11日司法解剖の結果、何者かによって扼殺された可能性が高いと断定されたため、警察による捜査が開始されました。

これが「BOACスチュワーデス殺人事件」です。

殺害された武川知子さん
引用:Ameba

殺害されたのは武川知子さん(当時27歳)です。

武川さんは、2か月間ロンドンで客室乗務員としての研修を受けた後、2月に帰国、BOACの客室乗務員として念願の初フライトを控えており、とても自ら死を選ぶとは考えにくい状況でした。

武川さんの交友関係を調べたところ、ベルメルシュ・ルイズというベルギー人の神父(当時38歳)がすぐに捜査線上に浮かびました。

神父に対する事情聴取は、弁護人とバチカン市国大使館一等書記官の立会いのもと、第1回目が5月11-13日に、第2回目が20日、22日と計5日間に渡って行われました。

警察が6回目の聴取に向けて準備を進めていた矢先の6月11日、病気療養を理由に、神父は正規の出国手続きを経てベルギーへと帰国してしまったのです。

出国直前に、空港の出入国管理官から警察に連絡が入ったものの、事件に関与したという証拠が見つからない以上、残念ながら神父の出国を止める手立てがありませんでした。

事件解決への糸口が見いだせないまま、1974年3月10日時効を迎えてしまいます。

迷宮入りとなってしまったこの事件には、実は多くの謎が残されています。

神父が武川さんを殺害したことにほぼ間違いないと思われますが、その背後には、神父が所属していたサレジオ会とドン・ボスコ社、武川さんが入社したBOACが関わる大掛かりな国際闇組織が関係しているのでは、との見方もあります。

事実サレジオ会には、戦後の混乱に乗じて援助物資の横流しや闇ドルを利用し不正に活動資金を作り出していたという疑惑がありました。

またBOACでは、麻薬などを密輸したとして1960年に乗務員127人が解雇されています。

もしかすると、武川さんはこの大きな闇組織に何らかの形で関与、または巻き込まれ、殺害されてしまったのかもしれません。

11位:泉南郡熊取町小4女児誘拐事件

大阪府泉南郡熊取町七山地区で2003年5月20日、小学4年生の吉川友梨さん(当時9歳)が行方不明となりました。

「泉南郡熊取町小4女児誘拐事件」です。

その日友梨さんは学校行事である社会見学を終えた後、午後2時半過ぎに3人の同級生と共に学校を出て、1.8キロ離れた自宅に向かいました。

友梨さんの自宅から560mほど離れた場所の交差点で同級生3人と別れた後、更に100m進んだ地点で別の同級生が友梨さんを目撃したのを最後に行方がわからなくなりました。

普段友梨さんは午後5時までには自宅に帰っていましたが、その日は同時刻を過ぎても帰ってこないため、兄が両親に知らせ、3人で近所を捜しまわりましたが友梨さんは見つからず、午後7時半頃警察に通報しました。

友梨ちゃんがまだ9歳と幼いため、警察は誘拐事件の可能性もあるとみて、犯人からの電話に備えて一晩友梨ちゃんの自宅に待機しましたが電話はなく、翌日失踪事件として公開捜査に踏み切りました。

引用:Twitter

その後の捜査で、友梨ちゃんの自宅から200mほどのところにあるたばこ店で塗装作業をしていた男性が、友梨ちゃんとみられる女児がひとりで歩いている姿を目撃していたことがわかりました。

この目撃情報のを最後に、友梨ちゃんは忽然と姿を消してしまったのです。

当初は事故の可能性も考えられましたが、近辺で交通事故が起きたという形跡はなく、林や溜池などの捜索でも、手掛かりとなるものは全く見つかりませんでした。

その後警察は、Nシステムの解析などから、怪しいと思われる車両4台を洗い出し必死に捜査を進めましたが、残念ながら4台とも所有者特定には至りませんでした。

そんな中、事件発生から10年以上が経過した2014年11月20日に、新たな不審車両の目撃情報が寄せられました。

事件当日の午後3時頃、友梨ちゃんの自宅から300mの場所に白いクラウンが車道脇に停車しており、情報提供者は徐行して通過しようとした際、白いクラウンの助手席にはうつむいている女児が乗っていたというのです。

警察は友梨ちゃんがこの車で連れ去られたものとみて、この対象車両を2300台に絞り、犯人逮捕に向け懸命な捜査を続けていますが、現在までに犯人に繋がる有力な情報は得られていません。

事件は公的懸賞金制度の対象となり、300万円の懸賞金がかけられています。

大阪府警は引き続き管轄の泉佐野署に捜査本部を置き、吉川友梨ちゃん発見につながる有力な情報提供を呼び掛けています。

10位:王将社長射殺事件

「王将社長殺害事件」は2013年12月19日に発生しました。

当時王将の社長だった大東隆行さん(当時72歳)は、毎朝5時45分頃出社し、京都市内にある王将本社前を掃除するのが日課となっていました。

事件当日の朝も、いつも通り午前5時半頃自身で車を運転し自宅を出発、約15分後会社に到着した直後に銃撃されたとみられています。

大東さんは、至近距離から4発の銃弾を浴びており、病院に搬送された時には心配停止状態で、そのまま帰らぬ人となってしまいました。


引用:NHKニュース

現場の近くで採取したタバコの吸い殻によるDNA鑑定が行われ、福岡県を拠点とする暴力団組員のDNAと一致したものの、犯人を特定するまでには至りませんでした。

その後も捜査の進展は見られず、「王将社長射殺事件」は暗礁に乗り上げてしまったと思われていた矢先、事件は突然動き出すことになるのです。

事件発生から9年の時を経て、大東社長を殺害したとして、特定危険指定暴力団・工藤会系組幹部である田中幸雄容疑者が逮捕されました。

犯人は逮捕されましたが、大東社長と田中容疑者にはどのような接点があり、大東社長が殺害された背景には何が隠されているのでしょうか。


引用:毎日新聞

事件発生後、会社の第三者委員会により、王将は過去に特定の企業グループとの間で不適切な取り引きが繰り返され、巨額の資金が流出したことが報告されました。

大東社長殺害事件と王将が行った過去の不適切取引に何らかのかかわりがあるとみて間違いないでしょう。

警察は、事件の全容解明に向けて必死の捜査を続けています。