「おせんころがし事件」とは1951年に千葉県で起きた殺人事件です。
日本で最悪の殺人事件と言ってもおかしくない事件として、死刑囚「栗田源蔵」は現在も死刑廃止議論にあがってくるほど極悪非道な人間でした。
当記事では犯人の栗田源蔵が犯した非道な犯罪の数々を解説します。
目次
栗田源蔵の生い立ちとは?極貧だった幼少期や夜尿症についても調査!
「おせんころがし事件」で逮捕されたことがきっかけで、現在にも残る残虐犯として名を遺した死刑囚「栗田源蔵(くりたげんぞう)」の生い立ちについて解説します。
兄弟が多く極貧だった幼少期、大人になっても治らなかった夜尿症についても徹底調査しました。
栗田源蔵の生い立ちは?両親や兄弟について
栗田源蔵は1926年(大正15年)11月に秋田県雄勝郡に生まれ、12人兄弟の三男として極貧家庭で育ちました。
父親は川漁師をしていましたが、病弱だったこともあり母親が家計を助ける典型的な「貧乏子だくさん」な家庭であったことがわかります。
ここでは、栗田源蔵の生い立ちについてまとめました。
夜尿症が原因でいじめに遭い小学校3年で中退
秋田県に生まれた栗田源蔵は12人兄弟の3男でした。
家庭が極貧だったこともあり、あまり両親からは面倒をみてもらえず、放置されて成長したストレスから夜尿症を幼少期に発症します。
凶悪な犯罪者である栗田源蔵は、もとはおとなしい性格だったため小学生のころは夜尿症による尿臭が原因でいじめにあい、小学校3年生で中退しました。
中退後は農家へ奉公にだされるも夜尿症によるにおいで嫌われたことに加え、盗み癖があらわれたことを理由に追い出されます。
そこから働き口を転々として、1年に10回以上奉公先を変えていきました。
栗田源蔵は奉公先を転々とする中、1945年(昭和20年)19歳の時に徴兵され、弘前の歩兵連隊へ入隊するも、ここでも夜尿症が原因で2か月で除隊させられます。
除隊の原因となった夜尿症は、栗田源蔵が死刑執行される直前まで悩まされていました。
19歳で炭鉱の坑夫となり荒々しい人間へと変化
1945年に19歳で歩兵連隊を除隊された栗田源蔵は、終戦を迎えた同年年末に北海道へ向かい、美唄炭鉱の炭鉱夫として働きはじめます。
炭鉱夫の仕事は、来る日も来る日も過酷な肉体労働です。
周りの男たちは荒くれ者が多かったことから、もともとおとなしい性格だった栗田源蔵も影響され粗暴で荒々しい性格に変わっていきました。
ヤミ米ブローカー集団の中心メンバーになる
栗田源蔵が炭鉱夫として働いている間に、近隣農家から米を盗み、闇で売りさばいたことから1年6か月の懲役刑が科されました。
懲役刑が明けた栗田源蔵は、この頃から傷害や窃盗そして殺人に手を染めていきます。
栗田源蔵は刑務所を出たり入ったりして、ヤミ米の販売をしていました。
戦後の物資が不足している背景もあり米はどんどん売れ、やがて闇米ブローカー集団「総武グループ」の中心メンバーとなります。
また総武グループ内で知り合った女性と三角関係になり、後の「2女性殺害事件」へと繋がるのです。
栗田源蔵が起こした4つの連続殺人事件について解説
栗田源蔵は窃盗から始まり、数々の犯罪に手を染めていきます。
やがて、現在にも歴史が残る残虐な殺人事件を繰り返していきました。
ここでは栗田源蔵が起こした4つの連続殺人事件について解説します。
①:2女性殺害事件
栗田源蔵がメンバーだった闇米ブローカー集団「総武グループ」には女性もいました。
女性メンバーのなかで、情熱的に栗田源蔵に近づいてきた17歳のA子と恋仲になり結婚の約束をしますが、同じメンバーで24歳のB子とも結婚の約束をしていたことで三角関係が発覚します。
1948年(昭和23年)1月、静岡県の海岸でB子のことを匿っていると思ったA子は栗田源蔵に激しく問いただすとあっさりこう答えたと言います。
「好きなのはA子だけ、邪魔なB子はもう殺してそこに埋めたよ」
栗田源蔵は結婚を迫ってきたB子を殺して、すでに海岸に埋めていました。
この事実を知ったA子は栗田源蔵に、警察へ自首するように勧めますが、通報を恐れた栗田源蔵はA子もその場で手ぬぐいで首をしめて殺害します。
そして殺害したA子の死体を犯し、B子と同じように海岸に穴を掘って埋めました。
この事件は栗田源蔵が捕まって自供するまで判明しなかったため、このあとも残虐な事件が起こるきっかけになってしまったようです。
②:小山事件
1951年(昭和26年)8月、栗田源蔵は泥棒に入る家を探して栃木県にある小山駅で降り立ちました。
昼間に盗んだ酒がなくなり日暮れに差し掛かったころ、盗みに入る家を物色し窓から若い女性(24歳)と赤ちゃんが寝ているのを見た栗田源蔵は若い母親に欲情し、ズボンを脱いでから家に侵入します。
侵入してきた栗田源蔵に気がついた母親は悲鳴をあげますが、無理やり布団に押し倒され布で首をしめながら犯し、母親を絞め殺しました。
そのあと家の中を物色し、タンスから着物や帯などを盗んだあと、栗田源蔵は死体に服などをかけて再度犯して逃げる前には台所から鍋や釜を持ち出して庭に埋めて逃走しています。
鍋や釜を埋めた行動は意味不明です。
また一緒に寝ていた赤ちゃんは無事だったと言われています。
③:おせんころがし事件
小山事件から2か月後の1951年(昭和26年)10月、栗田源蔵は千葉県にある国鉄上総興津駅(かずさおきつえき)に居ました。
栗田源蔵はこの日も盗みに入る家をさがして自転車でブラブラして上総興津駅に来ると、行方不明になっている夫を探してたまたま降りた3人の子供を連れた母親の姿がありました。
親子は帰りの電車も宿代もなく途方に暮れてると聞いた栗田源蔵は、この母親を抱きたいと思い言葉巧みに送ってあげると声を掛け、街灯もない真っ暗な道を歩き始めます。
栗田源蔵は道中、母親にしつこく「いい体してる」「やらせろよ」など言って迫るも母親は適当にあしらいますが、いくら迫っても一向にその気にならない母親に対して性欲を押さえきれなくなり突然怒りを爆発させました。
激怒して足を止めた栗田源蔵はまず自転車に乗っていた5歳の長男を引きずり降ろし、近くにあった石をつかんで意識がなくなるまで頭と顔をメッタ打ちしたあと、ぐったりした長男を海めがけて崖から投げ落としたのです。
次に11歳の長女の頭部を何度も何度も激しく殴り長男と同じように崖から突き落とし、母親に背負われていた3歳の次女の足をつかみ地面に何度も打ち付けたあと次女も崖から突き落とします。
子どもたちを手にかけた栗田源蔵は、自転車に積んでいたムシロを地面に敷いて、母親を強姦したあとヒモで首を絞めて殺害、遺体は子どもたち同様に崖から投げ捨てました。
栗田源蔵はすぐに立ち去ろうとはせず、自転車のランプを手にして崖下まで確認に行き、崖の中腹で3人が引っかかっているのを見つけると、さらに石をつかって意識のない3人に殴打を繰り返しその場を去りました。
このとき草むらに逃げ込み息をひそめてじっと隠れていた長女だけ助かったのです。
おせんころがし殺人事件生存者は長女だけ
おせんころがし殺人事件で唯一の生存者は草むらでじっと隠れていた長女だけです。
事件があった10月11日の朝、現場付近で泣いていたところを通りがかりの僧侶が発見し保護されたことから事件が発覚しました。
幸いケガは軽傷で済んだようです。
その後長女はどのように生活したのか詳しい情報はありませんが、現場検証に立ち会ったという記録があります。
現場検証とは、事件が起きた現場で当事者が警察官とこまかく当時の様子について調べることをいい、当時11歳だった長女は時折小さな肩を震わせて泣いていたとの事です。
現在、ご存命なら82歳となってますが、当時の心の傷がすこしでも癒えていることを願わずにいられません。
おせんころがし殺人事件現場の現在
おせんころがし殺人事件現場が起きた千葉県勝浦市の「おせんころがし」は千葉県の勝浦市から鴨川町にまたがる約4キロの崖の通称です。
おせんころがしの現在は展望台もたてられ、駐車場やトイレも整備された観光スポットとなっており休日には家族連れやカップルで賑わっています。
展望台からは太平洋を見下ろす絶景が広がり、おせんころがしの名前の由来となった「お仙」を偲ぶ石碑も立てられました。
展望台からの初日の出をみるには最高の場所として地元からも愛されている場所ですが、おせんころがし殺人事件の他にも転落事故や自殺も多い場所であることから、「心霊スポット」としても有名になった側面もあります。
④:検見川事件
おせんころがし殺人事件の翌年1952年(昭和27年)栗田源蔵は千葉県検見川町(けみがわまち)の妹夫婦が暮らす家に寄宿していました。
1月13日の夜、以前盗みにはいった家に着物がたくさんあったことを覚えていた栗田源蔵は再び同じ家に侵入します。
栗田源蔵の侵入に気づいたこの家の24歳の主婦に見つかって騒がれたためタオルで首を絞めて殺害、物音に気づいた63歳の叔母にも見つかり包丁で腹を刺して殺害しました。
2人を殺害した栗田源蔵は、25歳の主婦の遺体を犯したあと勝手口から逃走します。
この事件を発見したのは近所の住人で、人の気配が数日間ないことを不審に思い警察に相談したことがきっかけでした。
この家の勝手口からは迷路のような路地に出るため、犯人は「地元の地理」に詳しい「男」とされ、窃盗で全国指名手配されている栗田源蔵が浮かび上がってきます。
そのころ、現場付近では窃盗事件が続発しており、付近にたむろしている不良グループのリーダー格で「はやぶさの源」と呼ばれ 警察が目をつけていた人物が栗田源蔵です。
1月16日に妹夫婦の家で布団にくるまって寝ていた栗田源蔵を警察が発見、その布団には血が付着しており検見川の主婦が使用していたものと判明、他にも血のついた包丁から指紋もみつかり翌日の1月17日に犯行を否定するも真犯人として断定され逮捕されます。
栗田源蔵の逮捕後の様子は?反省はしていた?
検見川事件をきっかけに逮捕された栗田源蔵ですが、逮捕後の様子はどうだったのでしょうか。
栗田源蔵の逮捕後に検見川事件が公表されると、警察には全国から手口が酷似する事件の問い合わせが相次ぎ、小山事件とおせんころがし事件の関与も疑われました。
相次いで明らかになった犯罪を反省していたのか、栗田源蔵の逮捕後の様子についてまとめました。
拘置所でも看守に暴言や暴行を繰り返す
栗田源蔵は逮捕後、高熱を出して寝込んだと言います。
生まれて初めて人を殺したからだろうと見られましたが、高熱の詳細は不明です。
拘置所での栗田源蔵は、迷惑極まりない態度で看守にも暴言や暴力を繰り返し、看守を呼ぶために使用する「報知機」を一日に40回、50回と鳴らすなど我が物顔で振舞っていたと言います。
自傷行為を繰り返す
栗田源蔵の拘置所での素行はひどいもので、先述した暴言や暴力を繰り返していました。
後に栗田源蔵には死刑判決が言い渡されます。
死刑判決から死刑が執行されるまで、「拘禁ノイローゼ」の症状があらわれ栗田源蔵の精神状態は徐々に崩れ不安、不眠、吐き気の症状が強くなり医務室の常連でした。
栗田源蔵の心身の状態が徐々に悪化していき、大声をあげる、壁を叩く、ガラスを割って自傷行為をするなど混乱をおこし医務室で大暴れしたとの記録もあります。
「早く楽になりたい」と言い出し、栗田源蔵は突然棄却を取り下げ死刑が確定しましたが、この発言も拘禁ノイローゼの症状からでたものでしょう。
死刑が確定
1952年(昭和27年)8月13日、検見川事件について千葉地裁で死刑判決、翌年には小山事件とおせんころがし事件で合計6人殺害、1953年(昭和28年)12月21日に宇都宮地裁からふたつ目の死刑判決をうけました。
死刑判決を受けた栗田源蔵は判決を受け入れる事が出来ずに、他人に罪をかぶせる内容の再審請求を行っては棄却されています。
1956年(昭和31年)2月10日に栗田源蔵は死刑設備のない東京拘置所から、死刑設備のある宮城県刑務所仙台拘置支部へ移管されました。
宮城刑務所に移管した直後から、弁護士から再審請求の申立をしている間は死刑は執行されないと聞いた栗田源蔵は再審請求の申立を行っては棄却、棄却されると不安になり慌てて申立て、を繰り返していたと言います。
東京拘置所では傍若無人にふるまっていた栗田源蔵でしたが、宮城刑務所に移管され死刑が現実味を帯びると一気に意気消沈し、死刑執行される時にはかつての凶暴な面影はなくなり、体格がよく75キロあった体重はやせ衰えて気弱な男になっていました。
1959年(昭和34年)10月14日、栗田源蔵が32歳の時に死刑が執行されます。
栗田源蔵は死刑執行される直前まで夜尿症が治る事がありませんでした。
日本で死刑判決を2回受けた初の例
日本で2回死刑判決が出たのは栗田源蔵が初めてです。
2回死刑判決を受けたのは栗田源蔵の死刑判決から約30年後の2000年(平成12年)11月30日「勝田清孝事件」の勝田清孝死刑囚でした。
勝田清孝事件は、19722年(昭和47年)から1983年(昭和58年)の約10年間に22人を相ついで殺害した連続殺人で、立件されているのはこのうち8件です。
勝田清孝事件に巻き込まれた生存者は今もトラウマを抱えて苦しんでいるかもしれません。
このほかにも約300件におよぶ窃盗・強盗未遂で1986年(昭和61年)3月と1994年(平成6年)1月に2度の死刑判決を言い渡され、2000年(平成12年)11月30日に名古屋拘置所で死刑が執行されました。
2022年(令和4年)現在まで2回死刑判決が出た犯罪者は出ていません。
栗田源蔵が残した迷言について
32歳で死刑執行された栗田源蔵ですが、反省しているとは思えない「名言」もとい「迷言」を残しています。
開いた口がふさがらなくなる言葉の数々を改めてまとめました。
女性の気持ちをもてあそび命まで奪った一言
栗田源蔵が最初に殺人を犯したのは静岡県の「2女性殺人事件」で栗田源蔵が2人の女性と交際、結婚の約束をしたうえ2人とも殺害した事件です。
B子が殺害されたことを知らずにいたA子は栗田源蔵にB子との関係性を問い詰めた際に言い放った「迷言」を紹介します。
「好きなのはお前(A子)だけだよ。B子は殺してそこに埋めたよ」というものでした。
女性の気持ちをもてあそび、命まで奪った一言です。
性に貪欲だったことがわかる一言
おせんころがし事件で3人の子供を連れた29歳の母親に対して欲情した「迷言」です。
「いい体してるな。やらせろ。やらせないなら皆殺しにしてやる」
栗田源蔵は子どもの前でも、ところかまわず本能の赴くまま性に貪欲であったことがよくわかります。
唯一の救いは、性に貪欲な栗田源蔵の子孫が存在しないと思われる点です。
牧師に語った一言
1955年2月に栗田源蔵は教誨を受けています。
死刑囚における教誨とは、牧師が道徳や倫理を学び宗教的な講話を聴き、反省を促すもので栗田源蔵はプロテスタントになるための洗礼も受けました。
教誨を受けた牧師に対して言った「迷言」はこちらです。
「おせんころがしで死んだ女性が、子供を連れて泣いている夢を見るんです」
一見反省しているように聞こえますが、実際は差し入れをもらうことが目的で、宗教はどうでもよかったと言います。
差し入れをもらうという下心が決定的な「迷言」もあります。
それは、「こっちの坊主は差し入れが少ない」というものです。
全く反省の色はみえません。
死刑確定後精神科医に語った一言
死刑判決を受けた栗田源蔵が、精神科医に語った一言も「迷言」として残っています。
「先生、生きたいんです。助けてください」というものや
「死ぬのは何でもないが、無実の罪で死刑になれは母や妹がかわいそう」というものでした。
死刑執行されるまでの間に、同じ死刑囚がひとり、またひとり居なくなっていく恐怖のなか、訴えて泣いたそうです。
極限の精神状態におかれても、栗田源蔵は無罪を主張するばかりで、犠牲者に対する謝罪の言葉を述べることは一切なく、更生が難しいことがわかります。
獄中で書いた手記「懺悔録」からわかる異常な性癖
栗田源蔵は獄中で手記「懺悔録」を書いています。
懺悔録の中で栗田源蔵は、11人の殺害を告白していますが、おせんころがし事件は無実と主張し新聞社や雑誌社、放送局に売ろうと弁護士に相談するも、弁護士は却下しました。
この手記の中でも身勝手な主張が書かれています。
栗田源蔵が奉公をしていた9歳の時に近所の老人に言われた「迷言」です。
「女と寝る時は叩いたり、締めたりすると、とてもいいぞ」というものでした。
この老人の言葉を鵜呑みにした栗田源蔵は、女性の首を絞めて強姦したり、死姦する理由は女性を喜ばせるための行為だと主張しています。
栗田源蔵の幼少期からの夜尿症、貧困や兄弟の多さから両親から全く相手にされなかった経験から自己を容認するために歪んだ価値観の「怪物」がうまれてしまいました。
【おせんころがし事件】凶悪犯栗田源蔵の生い立ちは同情の余地があるが身勝手!
おせんころがし事件の凶悪犯栗田源蔵は幼少期に両親から全く相手にして貰えなかったことや、ストレスによる夜尿症が大人になっても治らなかったことは同情の予知がありますが、あまりにも身勝手な犯罪の数々でした。
時代背景に関係なく、現代でも凶悪な犯罪がニュースを騒がせています。
死刑廃止についてよく論争が起こっていますが、凶悪な犯罪がなくならないのは死刑の有無が犯罪抑止力として機能していないのです。
身勝手な犯罪に巻き込まれ、悲しい思いをする人がいなくなることを願わずにいられません。