【超閲覧注意】香月弘美は切断即死で死亡事故の図解画像がヤバい!?宝塚歌劇団の最新死亡事故も調査!

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今から65年前、宝塚歌劇団という華やかな歴史の中で起こってしまった、香月弘美さんの切断即死事故をご存じでしょうか。

舞台上の「せり」という昇降装置にドレスの衣装が巻き込まれたことで胴体が切断され、劇団員が命を落としてしまったのです。

しかし、宝塚歌劇団で劇団員が亡くなったのは香月弘美さんだけではありません。

2023年9月に入団7年目の劇団員女性が亡くなっており、事件にはかなりの闇が隠されているのではないかとも噂されています。

宝塚歌劇団という華やかな舞台の裏に隠された語られぬ歴史、「香月弘美さん死亡事故」について調査するとともに、とうとう起きてしまった第2の死亡についても解説していきます。

香月弘美が死亡した宝塚胴体切断事故とは?なぜ起きた?

舞台上に設置されていた「せり」の駆動部分に衣装が巻き込まれ、亡くなってしまった香月弘美さんは亡くなった当時、年齢はまだ21歳という若さでした。

その事故で香月弘美さんは上半身と下半身が真っ二つになる程の衝撃的な死をとげています。

なぜこのような痛ましい事故が起きてしまったのでしょうか?

日々辛い練習を積み重ね舞台上に立つことを夢見て、やっとの思いで入学できた「宝塚夢の舞台」で悲運の死をとげたその真相に迫っていきます。

香月弘美の経歴とは?お嬢様だった?

香月弘美」さんは、1936年8月21日神奈川県藤沢市に生を受けました

湘南白百合学園へ入学し、小学部・中学部で同級生で中学卒業後すぐに宝塚歌劇団に入学した親友の「松島三那子」の影響により、湘南白百合学園高等学校を中退し宝塚音楽学校入学することになります。

両親に可愛いがられお嬢様育ちだったそうで、実家は東京都墨田区内で工場を営んでいたそうです。

宝塚胴体切断事故当時の様子は?

事故が起きたのは1958年4月1日の「夜の部」午後6時25分頃だったそうです。

香月さんは「ハートの7役」を急遽代役として演じていました。

舞台上から奈落に降りるため、その舞台に一緒に出演していた松島三那子さんとせりの上に立ち、奈落へと降ろされました

この時の衣装は松島さんは体にぴったりとついたタイツ姿で、香月さんは円形のスカートだったそうです。

松島さんは早着替えがあったため、せりが下りると同時に着替え室へ駆け出しました。

しかしその時、松島さんの背後で「やめてー!」と叫び声が聞こえたのと同時に「バリバリ」という音と何かが飛び散る音がしたといいます。

松島さんが驚き振り返ると、無表情の顔と衣装がせりのシャフト部分に絡みつき、宙づり状態で回っている香月さんの姿を見たそうです。

香月弘美はスチールベルトに挟まれた?

円形のスカートには裾を広げるために腰回り、ひざ、裾の3か所に厚さ1mmのスチールベルトが輪になって取り付けられていました

その衣装ドレスの裾がせりのシャフトに巻き込まれたため、腰まわりのスチールベルトが香月さんの胴を締めつけ、体を真っ二つに切断されてしまったのです。

松島さんの衣装の背中には、香月さんの血しぶきがかかっていたそうです。

香月弘美は胴体切断事故直後は意識があった?

松島さんは香月さんの胴体が切断されていたその時、亡くなっているとは思わなかったそうです。

上半身と下半身が切断されていましたが、衣装で隠れており「まさか亡くなっている」とは思わなかったのでしょう。

死亡診断書によれば、香月さんは腰の部分で切断され、右足が押しつぶされていて、左足は膝下が骨折していたそうですが、上半身は異常がなかったのです。

第一発見者・松島三那子は香月弘美と不仲だった?

ネット上では当時一緒にせりに乗り舞台を降りた、「松島三那子」さんと不仲だったのではという噂が浮上しているそうです。

松島さんは事故当時、香月さんが亡くなったことを聞き、その後の記憶を失ってしまっています。

さらには「私が代わりに死ねばよかった」と叫びながら暴れるなど、半狂乱になる程のショックを受けていました。

小学部・中学部と同級生で宝塚入学後も刺激しあい、切磋琢磨してきた2人が不仲とは考えられないでしょう

香月弘美の第一発見者・松島三那子とは?

松島三那子さんは1952年に宝塚音楽学校入学しており、「春の踊り」で初舞台に立っています。

宝塚で同期には「那智わたる・浜木綿子・麻鳥千穂・藤里美保」らがおり、宝塚入団時の成績は64人中13位と好成績を残しています

1960年頃までは宝塚歌劇団の機関紙である「歌劇」に毎号松島さんの舞台写真やグラビアなど関連記事が掲載されていたそうです。

香月弘美の死後、松島三那子はどうなった?

松島さんは香月さん死亡のショックから数日間失踪したそうです。

亡くなった直後、半狂乱のように暴れまわる程「香月弘美」さんは大事な親友だったのでしょう。

松島さんは1960年9月「ヅカむすめのアメリカ日記」という著書を出版します。

その本の中には悲劇の死をとげた親友「香月弘美」さんのことも記されており、この死を回想した「ああ、無残の記憶に祈る」を世に出したかったからと語っています。

1962年11月29日をもって宝塚を退団しています。

香月弘美の胴体切断事故の原因は?陰謀説も?

せりのシャフトに衣装が巻き込まれ、胴体が切断されるほどの事故は一体何が原因だったのでしょうか?

せりの大きさに対して、衣装が大きすぎたことが原因だったのでしょうか。

それとも他に原因があると言うことでしょうか。

この痛ましい事故の根本的な原因は何だったのか解説していきます。

原因①狭いセリとむき出しのシャフト

せりの大きさは「縦3m×幅1.2m」ととても狭い作りでした。

さらにシャフトにはカバーが着いておらず、むき出しの状態となっていました。

香月弘美さんのドレスは裾まわりは3mあり、すでにせりの幅よりもサイズが大きいことが分かると思います。

引用:つぶやき館

せりには松島さんと二人で立ち降りていくという、無謀とも思われる方法で奈落へと降りていきました。

状況としてはいつ衣装が絡まってもおかしくなかったのです。

原因②香月弘美の着ていた衣装

香月さんが来ていた衣装は、円形のスカートの裾を広げるために腰回り、ひざ、裾の3か所に厚さ1mmのスチールベルトが輪になって取り付けられていました

以前は竹製のベルトだったのですが、3月26日に行われた「春のおどり、花の中の子供たち」の公演からスチールベルトに変更になったのです。

もしも竹製のベルトであれば、胴体が切断されずに助かっていたのかもしれません。

香月弘美の死について陰謀説も浮上!

陰謀説も浮上していたようです。

その理由として香月さんが亡くなった4月1日に、あまりにも偶然のことが重なりすぎているのです。

  • 香月さんはトランプの国の「ハートの7役」を急遽代役として出演していた
  • 衣装も大きく、竹製のベルトからスチール製のベルトへと変更された
  • せりの操縦手が臨時の人だった

これだけの偶然が重なれば、不自然と思う人も多かったのではないでしょうか。

このように4月1日に偶然が重なりすぎており、陰謀説が浮上したと思われます。

人気団員の香月弘美が当日代役として出演?

本来であれば「春のおどり、花の中の子供たち」のハートの7役を演じていたのは「日夏有里」さんだったのですが、この日風邪をひいてしまい休演することになりました。

事故が発生する1日前の3月31日「昼の部」から香月さんが代役を務めているのです。

当時人気団員だった香月さんが代役ということで「おかしく思った」方も多かったそうです。

竹製からスチールのベルトに変えられていた?

前述のとおり3月26日に行われた「春のおどり、花の中の子供たち」の公演からスチールベルトに変更になっています。

変更された理由として、竹製のベルトではスカートの張り具合が悪いということになり、この公演ではスチール製のベルトへ変更したそうです。

ですがこの事故をきっかけに、竹製のベルトへ戻されることになりました。

こんな偶然により最悪の事故が起こってしまったかと思うと、本当にいたたまれません。

セリの操作まで臨時の人が担当!

この公演でせりを操縦するはずだった「操縦手」は来ることはありませんでした

1958年4月1日に阪急電鉄でストライキが行われていたのです。

その操縦手はストライキの穴埋め要員として、阪急電鉄に駆り出されてしまいました。

そのため操縦しなれていない臨時の人が、操縦することになったのです。

もしもいつも通り操縦手の方が対応していれば、切断されずに済んでいたのかもしれません。

香月弘美は事故として隠ぺいされた可能性も?!

この事故の真相が「宝塚歌劇団」を守るために、隠蔽されていたかもしれないという噂もあるそうです。

松島さんは証言で「せりが下がりきる前に飛び降り、その直後に絶叫する声が聞こえた」と言っています。

松島三那子さんの証言を基に調べを進めると、3秒程度の時間で胴体が切断されることになったのですが、実況見分の結果とは食い違っていることが分かりました。

実際のせりが下がりきるまで13秒程かかり、胴体が切断されるまで6秒から7秒はかかるということが判明しているのです。

これは松島さんが身を守るためひいては、宝塚歌劇団を守るために隠蔽しようとしたのではないか、という憶測が広まる原因となったのです。

香月弘美の胴体切断事故のその後は心霊現象多発?新たな死亡事故も発生!?

「香月弘美」さんが胴体を切断され、亡くなった後の公演はどうなったのでしょうか。

さすがにその日は、全体がパニック状態になり公演は中止になったそうです。

しかし驚くことに翌日には、いつもと変わらず公演を実施したといいます

なぜそのようなことが出来たのでしょうか。

事故後の対応について解説していきます。

香月弘美の事故の翌日から公演続行!

香月さんが亡くなった翌日から通常営業を実施した宝塚歌劇団

現代の日本では考えられない出来事ですし、亡くなった人が出た場所で翌日から演技をしなくてはならない、役者さんはどんな気持ちで公演に臨んでいたのでしょうか。

驚くことに「春のおどり、花の中の子供たち」自体は、香月さんが亡くなったことも足を引っ張ることなく好評で、翌月も月組で続演されたといいます。

香月弘美の存在が抹消された?

公演中の胴体を切断されて死亡するという痛ましい事故は、決して忘れてはいけない事故です。

ですが、「宝塚歌劇団公式の歴史」の中にはこの事実は出てこないのです。

旧宝塚大劇場で公演していたころは、毎年4月1日に「香月弘美さんの事故現場」であるせり下で献花が行われていたそうです。

その旧劇場が取り壊されてからは、献花が行われることはなくなったといいます。

なお、香月弘美さんの慰霊碑だけは今もひっそりと残されています。

香月弘美の幽霊が出る?

元宝塚女優が東京の劇場へ観覧しに行った時に、観客席の後ろで「白い服を着た女性」の踊っている姿が目に入ってきたそうです。

観覧席で踊るということは宝塚ではしていませんでした。

白い服の女性は、胴体を切断され亡くなった「香月弘美」ではないかという噂が広がっていったのです。

宝塚歌劇団で第2の死亡事故が発生!?いじめも!?

2023年9月30日、宙(そら)組所属の劇団員・有愛きいさん(25歳)が、自宅マンションの敷地内で倒れて死亡しているのが発見され、自殺とみられています。

亡くなった劇団員は強い心理的負担がかかる状況だったとされており、上級生によるいじめが原因だったのではないかと噂されました。

しかし宝塚歌劇団に対する調査団の報告書と会見では、いじめやハラスメントは確認できなかったと発表され、ネット上では「闇が深い」と話題となっています。

全ての事実関係は明らかになっていないものの、宝塚歌劇団が何らかの事実を隠蔽しようとしている可能性もゼロではないでしょう。

「香月弘美」は宝塚歌劇団の唯一の闇?

華やかな舞台で、これからを夢見る一人の女性が亡くなってしまいました。

それは胴体を切断されてしまうという何とも痛ましい事故でした。

そのような事故を起こしておきながら、公式の宝塚歌劇団歴史上ではこの事件は抹消されているのです。

それでもたちだけは「香月弘美」という1人の女性を忘れてはいけないのです。