【凶悪犯】関光彦の生い立ちがヤバすぎる!?事件の真相と最後の言葉とは?

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1992年3月、関光彦(てるひこ)は市川一家4人殺害事件を起こし、常軌を逸した犯行は世間を恐怖に陥れました。

事件当時、関光彦はまだ19歳でしたが、死刑判決を受けて2017年に死刑を執行されています。

なぜ卑劣な凶悪犯が生まれてしまったのか、彼が残した最後の言葉と事件の真相に迫ります。

目次

【1992年】市川一家4人殺害事件とは?犯人は当時19歳の関光彦!

市川一家4人殺害事件の犯人は、当時19歳だった関光彦でした。

ごく普通の家族だった5人の日常を、一瞬にして奪い去りました。

思わず顔を背けたくなるほどの残虐すぎる犯行の数々と、事件の経緯を詳しく見ていきましょう。

【閲覧注意】一家4人を惨殺した市川一家殺害事件とは?

市川一家殺害事件は、1992年3月5日〜6日に千葉県市川市にあるマンションで発生した強盗殺人事件です。

犯人は当時19歳の関光彦で、暴力団から取り立てられた現金200万円を工面するために、以前強姦したことがある少女の家を選んで、強盗に入ります。

一家5人のうち祖母・父・母・次女の4人を殺害し、当時15歳の長女には、複数回にわたって強姦しました。

さらに、殺害した父親の会社に、長女を使って会社の通帳を奪いにいきますが、不審に思った従業員の通報によって翌朝には逮捕されます。

警察が現場に来たことで、長女は家族で唯一生き残ることができました

関光彦は2001年に最高裁で死刑判決が確定し、2017年12月19日に東京拘置所で死刑が執行されています。

事故を装って少女を強姦

市川一家殺害事件が起こる前に、犯人の関光彦と生き残った長女の間には面識がありました。

1992年2月12日の未明に、長女がシャープペンシルの芯を買いに、自転車でコンビニに行った帰りのことでした。

関光彦が運転する車に後ろから追突され、自転車ごと転倒して、右膝に擦り傷を負います。

彼は長女を病院に連れていって治療を受けさせますが、自宅に送る途中でナイフを使って脅し、顔などに怪我を負わせます。

その後、関光彦は自身のアパートに長女を連れ込んで、2回強姦しました。

さらに彼女のバッグから現金を奪い、そこで生徒手帳を見て、彼女のマンションの住所を知ります

早朝になると関光彦は一人で外出をしたので、長女はアパートから逃げ出すことができました。

彼女は被害届を警察に出すものの、関光彦が事件の捜査線上に浮かび上がることはありませんでした。

家族4人を次々と惨殺した中で少女を何度も強姦

1992年3月5日夕方、関光彦は被害者一家のマンションに侵入します。

そして、家族4人を祖母、母親、父親、次女の順番に殺害していきます。

関光彦は、犯行を行う最中に長女を何度も強姦しています。

【関光彦が行った殺害の経緯】

1、祖母(83歳)
・留守番をしていた祖母に金品を要求するも、警察に通報されそうになったことから電気コードで絞殺

2、母親(36歳)
・続いて帰宅した母親と長女に、家にあった柳刃包丁で脅迫し、抵抗した母親を何度も刺し殺害
・長女にも負傷させるが、刺された母親を別の部屋に移動させるのを手伝わせる
・次女が保育園から帰宅し、長女に夕飯を作らせて3人で食事をし、次女は祖母の部屋で眠った
・父親に金品を要求しようとするも、なかなか帰宅しないので、長女を強姦して待った

3、父親(43歳)
・父親が帰宅すると、いきなり柳刃包丁で父親の背中を突き刺す
・動けなくなった父親を脅し、家にある現金と通帳を出させ、再び刺殺した
・その後、関光彦と長女は、父親の会社に車で向かって通帳や印鑑を奪う
・それからラブホテルで再び長女を2回強姦した

4、次女(4歳)
・早朝にマンションに戻ってくると、次女が目を覚ましていて、泣き喚くことを恐れたため、柳刃包丁で背中を刺し、首を絞めて殺害した

被害者父親の同僚が異変に気付き犯人逮捕

事件があった日の深夜に、父親の会社「ルック」に1人で長女が来て、お金が必要だからと父親の同僚から通帳と印鑑を受け取っています。

長女の行動を不審に思った同僚は交番に連絡して、一家の住むマンションに警察官とともに向かいますが、応答がないため引き上げています。

朝方に、再び同僚が一家の自宅に電話を入れ、長女が対応しますが異変を感じたため、2度目の通報をします

警察官とマンションを訪れると、長女と逃げる関光彦を発見し、逮捕されました。

父親の同僚が通報していなかったら、被害はさらに拡大していたかもしれません。

フィリピンパブの女性に手を出して暴力団ともめていた?

1991年12月頃から、関光彦は市川市内にあるフィリピンパブに通い、フィリピン国籍のホステス「レイシャー」と知り合います。

翌年2月6日頃には、彼はレイシャーを店の関係者に無断で連れ出し、自宅に泊めて軟禁します

それを知った店の関係者は、関光彦から金を奪おうと考え、暴力団にその取り立てを依頼します。

現金200万円を用意しなければ、暴力団から危害を加えられるという恐怖から、彼はどのように金を準備するか、次第に追い詰められていきます。

そこで思いついたのが、以前強姦したことのある少女のマンションに強盗で入ることでした。

関光彦の生い立ちや顔写真は?家庭崩壊が起きていた?

関光彦の身勝手で残忍な犯行によって、尊い4人の命が奪われ、彼の行為は決して許されることではありません。

ただ、関光彦はなぜ凶悪犯になってしまったのでしょうか

公開された顔写真や、彼の実家や生い立ちから、事件が起きた背景を推察していきましょう。

実家は有名なうなぎ店で現在は閉店してる?

関光彦の実家は、千葉県市川市でうなぎの加工・販売を行う「株式会社関昇商店」を経営し、地元では有名な老舗店でした。

彼の母方の祖父が2代目社長で、一時は関光彦の父親にも店を任せたことがありました。

しかしその父親の借金によって、祖父は全財産を叩いて、光彦の父親の借金を清算せざるを得なくなります。

うなぎ店は倒産の危機に直面しますが、祖父が一から事業を立て直し、年商数十億円までに回復しました。

1992年に関光彦が事件を起こすと、関昇商店の客は激減し、店舗のいくつかを手放します。

2013年には破産をしており、現在は閉店しています。

関光彦の父親はダメ人間でDV男だった!

関光彦は幼少期に、父親と母親、そして5歳離れた弟と暮らしていました。

サラリーマンだった父親は会社を辞めて、関昇商店の1店舗を任されますが、仕事上の失敗で関昇商店に多額の損失を出します。

私生活でも、父親は超がつくほどの遊び人で、ギャンブルと酒、女が三度の飯より好きでした。

高級外車を乗り回し、愛人をつくって遊び歩き、サラ金からの借金はたちまち増えていきました。

それらのストレスからか、父親は母親に対して暴力を振るうようになり、光彦や弟にも虐待を行っていました

関光彦は幼少期から全身に生傷が絶えなかったようです。

関光彦はダメ人間の父を強く憎んでいた?

そんなひどい仕打ちを受けていた関光彦は、幼少期から父親を強く憎んでいました。

何時間も正座をさせたり、食事を与えないこともあったようです。

また徹底して無視をし続けたり、真冬の夜中に外に放り出されたりして、彼にとって家庭は暴力と恐怖の場所でした

関光彦は死刑判決が出た後に、父親のことを以下のように語っています。

「この世でもっとも憎い人間。生まれつきの詐欺師、殺人鬼育成マシーン。叶うなら僕と一緒に死刑台に吊るしてやりたい」

日常的な暴力によって、過酷な生い立ちを過ごした光彦の精神は、徐々に蝕まれていったのかもしれません。

両親が離婚し借金3億の貧困生活に?

関光彦が小学4年生の頃には、父親の借金はおよそ3億円ほどまで膨らみ、債権者や暴力団から追われた父親は一人で逃げ出してしまいます。

母親とともに、光彦と弟は夜逃げ同然で家を出て、母方の祖父の家に身を寄せます。

父親の約3億円の借金を、祖父が全て肩代わりする条件として、祖父は3人に絶縁を言い渡します。

頼るところがなくなった3人は、風呂なしの古いアパートに引っ越しています。

その頃に両親は離婚をしており、光彦と弟は母親によって女手一つで育てられました

極貧生活で壮絶ないじめも!当時の顔写真も?

これまでの裕福な生活から一変して、極貧生活に転落した関光彦は、その後何度か小学校を転校しています。

さらに、貧しさを抱えた光彦は、次第に学校でいじめを受けるようになりました

服は一着しかなく、ランドセル代わりに風呂敷を下げて学校へ行くと、「汚い」「臭い」「貧乏人」と言われたようです。

お金に困った光彦は、万引きやスリなどに手を染めるようになりました。

中学生になると、少年野球チームでエースとして活躍をするも、校外では喧嘩に明け暮れ、母親や弟に対して暴力を振るうようになります。

上記の顔写真は、中学校を卒業した時のもののようです。

小学生時代はいじめられていた光彦も、中学生になると体が大きくなり、喧嘩も強くなっていきました

恐喝事件で高校を中退した?

高校に入学した後は、クラス委員を務めたり、成績も上位だったようです。

甲子園を目指していた関光彦ですが、思うような野球をできる環境ではないことから、次第に高校生活の意欲を失っていきます。

そんな中で彼は不良仲間とつるみ、喧嘩や酒、煙草を常用するようになります。

ついには他校の生徒に乱暴をして停学処分を受け、高校2年の5月末には退学しました

学校側は退学理由を、光彦が恐喝事件を起こして停学処分にして指導をするも、それを無視したために、母親から退学の申し出があったとしています。

しかし母親はその認識ではないようなので、事実は定かではありません

不良時代うなぎ店の売上を盗み祖父を失明させた?

関光彦が中学生の頃に、絶縁していた母親と祖父は関係を修復していました。

再び祖父の援助が受けられるようになったことで、生活が一気に良くなった時期もありました。

しかし光彦にとっては、「自分たちが一番大変な時期に見放した」という祖父に対する恨みが払拭できなかったようです。

高校を中退してから、祖父の仕事ぶりに興味を持った光彦は、祖父が経営するうなぎ店で仕事の手伝いをするようになります。

彼の働きぶりは、あまり良い評価は受けていなかったようです。

私生活でも、夜遊びや補導されることは多々あり、被害者に示談金を支払うこともあったそうです。

そんなある日、店で現金がなくなる事件が相次ぎます。

祖父は光彦の仕業だと疑い、それに腹を立てた光彦は、就寝中の祖父の顔面を蹴って、左目を負傷させます。

その時に売り上げを盗んだ犯人は、明かされていません。

フィリピン人女性と結婚して子どももいる?

強盗殺人を起こす1年前に、関光彦はフィリピン人ホステス「エリザベス」と結婚をしています。

彼女とは、フィリピンパブで出会いました。

エリザベスは関光彦の子どもを妊娠したようで、彼女は1人で出産のためにフィリピンに帰国します。

その1ヶ月後に、市川一家4人殺害事件が発生しました。

子どもの性別や、実際に産んだかどうかは未だに不明です。

関光彦の最後の言葉とは?事件についての書籍も発行されている?

関光彦は、死刑判決から16年後の2017年12月19日に死刑を執行されました。

19歳で逮捕されてから、獄中生活は25年に及び、関光彦は44歳になっていました

彼が残した最後の言葉や、事件に関する書籍について、詳しくみていきましょう。

関光彦の最後の言葉は被害者への懺悔?

関光彦は死刑執行の直前に、最後の言葉として弁護士宛に「裁判記録は(一場)先生の元へ」と言い残しています。

被害者への懺悔の言葉はなく、罪への反省を窺うことはできません。

それどころか、彼の生への執着は凄まじく、死刑決定後も再審請求を繰り返しています。

結果的には、死刑確定から執行まで16年もの時間を要することとなります。

さらに、弁護人のアドバイスによって、絞首刑を回避するために食事で体を肥大化させます

逮捕当時80キロだった体重は、120キロを超えていたようです。

最終的には、絞首刑を回避することはできずに、努力は無駄に終わりました。

関光彦は死刑になると思っていなかった!

関光彦は事件当時、20歳未満の未成年者なら死刑にならないと考えていたようです。

死刑なんてものは自分とはおよそ縁遠いもので、一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に懲りずにまた同じ過ちを犯すような、どうしようもない、見込みのない連中の受ける刑罰だと。五〇、六〇過ぎて人を殺すような奴らと一緒にされてたまるか、と

実際に逮捕後は、彼は母親に頼み込んで、高校時代の教科書に参考書を差し入れしてもらっています。

出所されることを前提に、資格の勉強をするという冷酷ぶりを発揮しています。

1988年に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」でも、少年4人によって残虐的な殺人が起きています。

その主犯格の少年は、懲役20年の判決を受けています。

関光彦もこの事件を知っていたのか、未成年の殺人は刑が重くならないという浅はかな考えを持っていたようです

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【2017年】20年ぶりに死刑執行?

判決から16年後の2017年12月19日に、関光彦は死刑を執行されました。

犯行当時、20歳未満だった死刑囚の執行は、1997年の永山則夫以来20年ぶりのことでした

永山則夫は19歳の時に、「ピストル連続4人殺害事件」を起こしています。

彼が死刑された同年に、「神戸連続児童殺傷事件」が発生して、14歳の少年が殺人を犯しています。

永山の死刑は、少年犯罪の抑止力のために実行されたという指摘もあります

事件に関しての書籍が発行されている!

実際に関光彦を取材してきた永瀬隼介さんは、「19歳一家四人惨殺犯の告白」という書籍を発表しています。

死刑が確定するまでの約3年間で、永瀬さんは彼と面談を行い、手紙を交わして本人から証言を得ています。

この本では、被害者遺族を始めとして様々な関係者から聞いた話にも触れており、関光彦の闇と事件の真相に迫った一冊と言えるでしょう。

市川一家4人殺害事件の生き残りの少女の現在は?

市川一家4人殺害事件では、加害者家族5人の内、長女だけが唯一生き残りました。

一夜にして愛する家族全員を奪われ、心身ともに大きな傷を負った彼女は、その後どのような人生を歩んでいるのでしょうか。

当時15歳だった彼女の、47歳になった現在を調べてみました。

事件後は熊本県に移住して美術大学に進学?

強姦の被害を受けた長女は、奇跡的に生き残りましたが、家族全員を失ってしまいました

まだ高校1年生だった彼女は、事件後しばらくは両親の知人宅にお世話になっていたそうです。

その後、母方の実家がある熊本県に移り住みました

高校卒業後は、夢だと語っていた美術大学に進学をしたそうです。

そんな彼女は、「将来は母のようなキャリアウーマンになりたい」と話していました。

現在は結婚してヨーロッパに移住していた?

関光彦の死刑が確定した後の2004年春に、長女は交際していた男性と結婚をしているようです。

事件で亡くなった彼女の両親はかつて、ヨーロッパに移住したいと夢みていました。

長女も現在はヨーロッパへ移住したと言われていますが、現在の様子はわかっていません

新しい土地で、新しい人生を歩んでいてくれることを、心から願ってやみません。

凶悪犯になった関光彦はもうこの世にいない

関光彦は、何の関係もない家族4人の尊い命を奪い、1人の少女の心身に大きな傷を負わせました。

彼の最後の言葉からもわかるように、自分が犯した罪への反省は見られませんでした

19歳の少年が、凶悪犯にならずに済んだ道はなかったのでしょうか。

亡くなった一家4人のご冥福を心よりお祈りします。