【超閲覧注意】女子高生校門圧死事件とは?細井敏彦被告の現在がヤバい!?

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この事件の加害者「細井敏彦」は当時どのような教諭だったのでしょうか?

そして今現在、細井はどこで何をして何を思い、どのように暮らしているのでしょうか?

真相を探っていきましょう。

当時細井敏彦は無罪を主張

刑事裁判において細井敏彦は石田遼子さんを死なせた事について過失責任は無いと無罪を主張しました。

・門扉の閉鎖は教師3人で行う共同作業であり、安全で合理的な方法であった。
・わずかな隙間に生徒が頭から突っ込んでくる事は予見不可能なことであり過失責任はない。
・十分な安全策を講じずに教師に校門指導をさせた学校側に責任があり、誤った教育理念を押し付けた学校管理者や兵庫県教育委員会、文部省の責任が問われるべき。

これらの理由から、細井は無罪を主張しましたが、1993年2月10日に禁錮1年、執行猶予3年の有罪判決が下されました。

判決では、教師の過失を認める一方で、裁判官は「被告人の刑事責任とは別に、学校側の生徒の登校の安全に対する配慮が足りなかった」と述べています。

【結論】有罪判決により教員免許失効

1993年に神戸地方裁判所で開かれた細井敏彦の判決公判では、業務上過失致死罪が認められ、禁錮1年、執行猶予3年の有罪判決が言い渡されました。

細井は判決を不服としましたが、自身や家族の心労を考え控訴はせず判決は確定しました。

細井の教員免許は失効し、懲戒免職不服申立の審理も中止されたのです。

文部省はこの事件を一教諭と一生徒の当事者間の問題であり、学校側に問題は無いとの認識を示しています。

校長、兵庫県教育委員会は文部省の意向を受け、教員個人の責任を主張。

刑事裁判で細井の過失が認定され、安全性が足りなかったと述べられたものの、学校側の責任や管理教育の是非についてまでは触れられていません。

女子高生校門圧死事件に関しての本を出版

 

細井敏彦は、判決後の1993年4月に事件を題材にした書籍『校門の時計だけが知っている 私の【校門圧死事件】』(草思社)を実名で出版しました。

本書では、「校門を閉鎖し生徒を取り締まることは正しいと信じていた。しかし生徒の命が奪われ、他に方法はなかったのかと考えさせられる」と細井側から見た事件や周りの様子、また自身の心情が綴られています。

犯罪者が本を出すことには、現在でも賛否両論が飛び交い不快感を示している人も多いようです。

女子高生校門圧死事件の加害者「細井敏彦」教諭の現在とは?!

細井敏彦の現在の消息は明らかになっておらず、どこで暮らしているのかも不明です。

厳しい指導と規則で生徒を縛る「管理教育」の象徴とも言われた事件を、学校で尊い命が失われた事実を忘れないため、事件後市民たちは活動を続けました。

メンバーの高齢化を理由に、30年の節目に区切りをつけられましたが、今でも卒業生や、当時勤務していた教員らが7月6日には追悼式を行い黙とうを捧げます。

「あの日は1学期の期末試験があり、部活動の朝練もなかった。女子生徒は普段、遅刻するような生徒ではなかった。管理教育の犠牲者だった。」

引用:神戸新聞2020/7/4

石田遼子さんは、期末試験に備えて前日の夜遅くまで勉強していたのでしょう。

朝、遅刻しそうになり、焦るあまり校門に駆け込んでしまったのでしょうか。

女子高生校門圧死事件を風化させてはいけない

「校門圧死事件」は、膨れ上がった生徒数に教員数が追い付かず、生徒を縛ることで統率を図った「管理教育」により引き起こされた、痛ましく悲しい事件です。

細井敏彦は現在消息不明です。

著書に「生徒の命が奪われ、他に方法があったのではないかと考えさせられる」とあったように、石田遼子さんの命を奪ってしまったことを後悔し生活を送っているかもしれません。

このような悲しい事件が2度と繰り返されぬよう、そしてこの事件が風化してしまわぬよう、安心して教育を受けられる場を守っていきたいものです。