実は事故の前日、片桐機長と副操縦士と航空機関士らの3名は、羽田発福岡空港行きJAL377便に搭乗しますが、ここで片桐機長は不可解な行動をしていました。
離陸前に管制塔の「滑走路へと進入し待機せよ」への応答を無視し「管制許可きてるね」と発言、無理やり離陸しようとしたのです。
この時は副操縦士がとっさに阻止し、13分遅れで羽田から福岡へ向かったそうです。
また、機長の操縦で大きく右に旋回しながら上昇していくときに機体が右に傾いていたため、それを副操縦士が修正操作しています。
副操縦士の「大丈夫ですか?」との問いかけに、片桐機長は「大丈夫です」と答えました。
その後も一連の出来事に対して謝るわけでもなく、副操縦士に対して「お見事!」などと言ったようです。
こうした直前の予兆があったのも関らず、翌日もフライトを中止しなかった当時の日本航空の制度にも問題があったのではないでしょうか。
目次
片桐機長は精神病だった?
家族の証言によると、1976年秋頃から既に片桐機長の精神異常の兆候は出ていたそうです。
1976年に片桐機長は日本アジア航空へと出向し、定期運送用操縦士の学科試験をうけたのですが、不合格だったことで精神的に不安定になっていました。
1977年には、片桐機長の口数が減っていき周りからもノイローゼを疑われます。
彼は自信を喪失し思考回路も変化、幻覚が現れ始めて友人と接触することも避けるようになっていきました。
下記のような発言もしていました。
さらには、愛犬を散歩中、見ず知らずの人に突然、愛犬をプレゼントしようとしたり、操縦席で急に笑い出し、周りを困惑させたり異常な行動をとっています。
しかし、信じられないことに1979年の12月に機長に昇格したのです。
片桐機長は事故直前までうつ病で入院していた?
1980年、最初の変化から2年経った頃は片桐機長には幻聴が出始めており、10月は体調不良で乗務を取りやめていました。
翌11月は、雑なブレーキ操作や旋回行動の遅れによる飛行機経路からの逸脱などで上司から「乗務の取り消し処分」を受けています。
精神科の誤診だった!?
ここで、家族も本人もおかしいと感じ精神科を受診することになります。
そこで診断がついた病名は「うつ」か「心身症」という事でした。
しばらく療養が必要との指示が出されますが、片桐機長は精神科に通院を継続しつつ1981年4月会社に復帰します。
問題であるのは診断名が「うつ」「心身症」であり「統合失調症」ではないという事です。
つまり、片桐機長は統合失調症の治療は受けていないのです。
さらに医師は抑うつ検査を行い「仕事中に鬱の症状が出ていないから仕事に復帰してよい」と診断書を出しています。
実際の片桐機長の精神状態は、以前より後退し悪化していたにも関わらず、医師は片桐機長の心の状態に気付けなかったのです。
この誤診がのちのちに取返しがつかぬ事態を招いてしまいました。
「機長!やめてください!」の石川副操縦士の現在は?
年齢 :74歳前後
生年月日:不明
学歴 :中央大学経済学部卒業
キャリア:アジア航空の機長
日航機羽田沖墜落事故当時、副操縦士を務めていたのは当時33歳の石川幸史さん。
石川副操縦士は、存命であれば74歳くらいと思われますが、どこに住んでいるのか情報がいっさいありません。
事故が起きたときも、機長の暴走を必死で止めようとした人です。
「機長!やめてください!」が1982年流行ワードに!
1982年といえば、ホテルニュージャパンの火災なども起こった年でした。
しかし、この日航機羽田沖墜落事故によって「機長!やめてください!」がこの年の流行語ワードに選ばれています。
この他にも逆噴射なども流行し、大きな痛ましい事故として、人々の記憶に残る1年となってしまいました。
石川副操縦士の現在は?生存してJAL機長に?
事故の直後の石川副操縦士は腰椎及び左肋骨骨折という怪我を負ったものの、飛行機に最後まで残って、救助活動を行っていたそうです。
そしてその後も副操縦士として経験を積み、日本アジア航空で機長となりました。
今では、日本航空内で知らない人がいないほどの人格者なのだとか。
こうした立派な方が、これからもしっかりと指導を行って欲しいものです。
日航機羽田沖墜落事故の原因は幻聴だった
この事故は、片桐機長の病気がもっと早く見つかり、適切な処置を受けていたらと考えると残念でなりません。
この事故を踏まえ、現在の飛行はフライト中に操縦桿を逆噴射できない形へと変えられています。
現在不治の病ではないといわれている統合失調症、片桐機長は事故に対して罪のの意識を感じることは出来たのでしょうか。